松下には、自分で考え抜いた人間に対する見方、考え方が前提として存在していた。そして人間の価値に対する絶対的評価があった。人間は尊い存在である、その人間観が前提にあって、松下のすべての言動があった。
その人間観を抜きにしたままで、やり方だけを模倣すれば、逆の結果を招くことになる。これは本書のすべてに同じことが言える、重要な部分である。
松下は「叱り方がうまい」とよく言われていた。しかし、叱り方そのものに何かコツや技術があって、配慮や手心が加えられて「うまい」のだとは私にはとうてい感じられなかった。
松下の叱り方は、時として尋常を越えることがあった。厳しい言葉、厳しい視線。キッと私を睨みつけて、もうこれ以上憎たらしい者はいないというような表情と口調。思わず震え上がるか気絶するような、そんな雰囲気の叱り方をするときがあった。若いころはもっと凄かったという。実際、松下電器を経て三洋電機の創立に参加された後藤清一氏は、松下に叱られてほんとうに気を失ったエピソードを著書で述べておられる。松下の叱り方が生易しいものではなかったのは確かである。
叱る時に何か配慮をしているのか?
あるとき松下が機嫌のいい時に、私は冗談めかして尋ねたことがある。「人を叱るときに、何か配慮しながら叱るんですか。叱るときには、何を考えて叱っているのですか」
「えっ?わしが部下を叱るときには、何かを考えたり、配慮するというようなことはないよ。とにかく叱らんといかんから叱るわけで、このときはこういう叱り方をしようとか、考えて叱るということはないな。なんとしても育ってもらわんといかんわけやから、あれやこれや、姑息なことを考えながら叱ることはあらへんよ。そんな不純な叱り方はせんよ。私心なく一生懸命叱る。叱ることが部下のためにも組織全体のためにもなると思うから、命がけで叱る」
「叱るときには、本気で叱らんと部下は可哀想やで。策でもって叱ってはあかんよ。けど、いつでも、人間は誰でも偉大な存在であるという考えを根底に持っておらんとね」
松下の叱り方が激しいものであったにもかかわらず、結局はその叱り方に温かさとやさしさを感じるのは、そうした松下自身の人間観によるものであろう。松下が激しく怒っている、その瞬間にも、この人には部下に対する思いがあるのだということが自然に感じられた。そして、私的な感情からではなく、公の立場に立っての叱責であることが感じられた。
だからこそ、松下は「叱り方」がうまいと言われた。そして松下に叱られたことを自慢する人が多いのだと思う。
あなたは部下を叱って、何人の部下から「ありがたかった」と感謝され、感動されたことがあるだろうか。
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