「君が代」は、なぜいつまでも議論になるのか 最大の問題は日本人自身の中にある

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他にも、歌詞やメロディをめぐって「奇妙な歌だ」「いや、実にすばらしい歌だ」という対立などもあるのだが、これくらいにとどめておこう。

以上の議論が正しいかどうかは、ここでは詳しく触れない。今はただ「君が代」をめぐってこのような激しい対立があったことを思い出してもらえれば十分である。

「歌う」ことこそ「君が代」問題の本質

それにしても、以上の議論から「君が代」が「日の丸」より不人気な理由を読み取れただろうか。軍国主義に利用された点や、性急に法制化されたという点では、「君が代」も「日の丸」も変わらないはずである。

では、歌詞の存在はどうだろうか。なるほど「君が代」を扱う場合、例えば「君」が何を意味するのかという厄介な問題に取り組まなければならなくなる。歌詞も古典に由来するので、その意味を完全に理解するには様々な文献を参考にしなければならない。おそらく「君が代」が支持されない理由のひとつはここにあるといっていいだろう。

だが、「君が代」問題の本質は、それがまさに「歌う」ものであることに求められる。

これは「日の丸」と比較するとわかりやすい。「日の丸」掲揚は「見る」ものなので、「目をつむる」「視界に入れない」「別のものを見る」「別のことを考える」などの行動で比較的簡単にやり過ごすことができる。我々は普段、街中に配置された看板や、インターネット上に表示される広告をほとんど意識すらせずに流してしまっているはずだ。

それに比べ、「君が代」斉唱は「歌う」ことなので、なかなか無視することが難しい。「歌う」とは、その歌詞を頭に入れ、音程を外さないように注意しながら、周囲とも協調しつつ、腹に力を入れて、一言一句、声を出すことにほかならない。「歌う」とは、心身をフル動員した、能動的かつ意識的な行為なのである。そのため、その強制は「見る」よりも全身に行き渡り、やりたくない人にとっては遥かに屈辱的で暴力的なものとなってしまう。

われわれは普段「君が代」のこの特性に気づいていない。なぜなら、いったん学校を卒業すれば「君が代」を歌う機会はまったくといっていいほどなくなるからである。国際的なスポーツの試合で「君が代」が使われることもあるが、観戦者の多くにとってその「君が代」は「歌う」というよりも「聴く」ものであろう。「聴く」は「見る」よりもやり過ごしにくいかもしれないが、「歌う」ことに比べれば拘束力の点で明らかに劣る。

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辻田 真佐憲 文筆家、近現代史研究者

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つじた まさのり / Masanori Tsujita

1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。単著に『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。また、論考に「日本陸軍の思想戦 清水盛明の活動を中心に」(『第一次世界大戦とその影響』錦正社)、監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。

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