「君が代」は、なぜいつまでも議論になるのか 最大の問題は日本人自身の中にある

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昨今、街頭デモなどで「日の丸」を振り回している「行動する保守」を自称する者たちも、「君が代」はあまり歌っていないように見受けられる。「君が代」はその内容やメロディから、歌い方や歌う場所を選ぶということもあるだろう。その一方で、現在もなお「君が代」が「下から」歌う歌になっていないという一例のようにも思われる。

いずれにせよ、心身を拘束するというある種の暴力を含むからこそ、「君が代」斉唱は敢えて国民化の装置として「上から」導入されたのだった。

我々は「君が代」のオーナーである

とはいえ、現在はもはや「上から」国歌を押しつけるような時代でもあるまい。そもそも民主国家を標榜する日本にあって、国歌とは国民のものである。すなわち、日本人は「君が代」のオーナーにほかならない。「国旗国歌法」もその象徴と理解されるべきだろう。法律であるからには、国民がその気になればいつでも国歌を変更できるのだと。

なるほど教職員は公務員として「君が代」を斉唱する職務命令に従う義務があるかもしれない。児童生徒には教育指導上「君が代」を半ば強制的に斉唱させた方がいいのかもしれない。個人的にはあまりに乱暴な主張なので賛同しかねるが、百歩譲ってそうだとしよう。しかし、それでも圧倒的大多数の日本人にはそんな義務は微塵もない。「君が代」はもはや「上から」注入するような歌ではないのである。

かつて「国旗国歌法」が成立した時、岐阜県の知事が「国旗国歌を尊敬できない人は、日本国籍を返上して頂きたい」などと発言して問題になったが、まったく時代錯誤も甚だしいし、かえって民主国家のシンボルをおとしめたといわざるをえない。

『ふしぎな君が代』(辻田真佐憲著、幻冬舎新書)。画像をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

むしろ問題は、いまだに「君が代」を論じる際に公立学校の入学式や卒業式での斉唱くらいしかほとんど話題にならないというところにある。言い換えれば、オーナーである日本人が自分のこととして「君が代」を考えていないことこそ最大の問題なのである。

実際、日本人の多くは「君が代」の意味や歴史についてあまりにも無関心ではないだろうか。あるいは保守派とリベラル派の言い争っている「面倒くさい歌」だと思って、打っ棄(うっちゃ)っているのではないだろうか。その結果、公立学校の児童生徒が入学式や卒業式で無用な緊張を強いられているのだとすれば、国民国家の成員としてこれほど無責任なこともあるまい。

現在「君が代」について日本人に義務があるとすれば、それは「文句をいわずに歌う義務」ではなく「オーナーとして適切に運用する義務」だろう。そのためには、「君が代」の意味や歴史をしっかり知っておかなければならない。

辻田 真佐憲 文筆家、近現代史研究者

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つじた まさのり / Masanori Tsujita

1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。単著に『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。また、論考に「日本陸軍の思想戦 清水盛明の活動を中心に」(『第一次世界大戦とその影響』錦正社)、監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。

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