また、同書では、大きな災害における身近な人々の行方不明や死亡よって「自分だけ生き残ってしまったという自責の念」などから起こる心理的不安定から脱し、現世を生き延びていく方法を講じなければならない、ということを指摘している。
台南でも、厄落としを行っていた人々のなかには、家族や身の回りの人を失ったり、家を失ったりした人がいたに違いない。台南の震災における収驚という行為は、心理的に被災者を落ち着かせることによって、人々の精神的な回復力を高めるような効果を与えていると考えられるだろう。
外から見れば、ただの「気休め」かもしれないが
震災において、大きな衝撃を受けた人々に対し、彼らが「信じる方法」によって、外部からみれば「気休め」や「迷信」と思えるような方法でも、ある種の心理的な立ち戻りのきっかけを与えることに意味がないことはないだろう。
もちろんこの種の宗教的な行為にはそれぞれの国や地域によって異なる伝統に根付いたものがあり、だからこそ、震災のような一大事件の中でも違和感なく受け入れられた部分も大きいので、収驚という行為そのものを一般化することは難しいかし知れない。
ただ、台南の被災地で行われていた「収驚=厄落とし」に行列を作っている人々の姿は、想像を超えた不幸や災害に直撃された人々にとって「心を日常に引き戻す」ような効果が期待できる緊急時の「心のケア」がどのような形であっても重要であることを、改めて実感させるものだった。
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