そのように経営を軌道に乗せはじめた矢先、問題が起きる。ライバル大型家具店が近くに出店し、ニトリは大打撃を受けた。悩み苦労しているさなか、たまたま米国へ家具視察に行かないかという話が舞い込む。それに乗った似鳥氏は米国で衝撃を受ける。
米国では部屋全体でコーディネートがなされ、家具は人々のライフスタイルに重要な位置を占めていた。しかも安価で、品質も高い。欧米人が日本の住宅を指してウサギ小屋と呼ぶ(ちなみに私は聞いたことがない)。それは狭いからではなく、住生活を演出する家具が貧弱すぎるからだ。つまり、家具への精神の貧困さを似鳥氏は思い知った。
ここで似鳥氏が予見したのは、日本の住空間における和室の斜陽だ。和室は客間として使われ、徐々に小さくなっていくに違いない。家族はリビングやベッドルームで生活する。そこに置く家具を重点的に扱えばいい。
和式を捨て、洋を取る。当時、それは家具の本流ではなかったし、アメリカかぶれとも揶揄された。似鳥氏はワンハウス・トータル・コーディネーション・マーチャンダイジング(OTCM)という言葉を創出した。新居があれば、その住宅全体にニトリがすべての家具を提供できる態勢をめざした。このコンセプトは当時では革命的なことだった。
異常な行動力がニトリを支えた
ワンハウス・トータル・コーディネーション・マーチャンダイジングのコンセプトを具現化するのはたやすくなかった。日本人が生産すると、ただただ高コストになってしまう。それを、安さを哲学とする似鳥氏が許すことはできなかった。
そこでニトリはインドネシアに向かう。工場を建設し、そこから日本に輸出させた。たやすくはなかった。かつて私は興味本位で調べてみたことがあるが、当時の状況は「毎日10%の従業員は無断欠席する。(中略)女性を多く採用してみたものの、一人が月に二回も三回も生理休暇を取るのにも閉口した」状況であったらしい(雑誌『2020AIM』2000年5月号)。しかし同社が海外輸入を開始した1986年という時期を見れば、同業他社のみならず異業種と比べてみても、かなり早かったことがわかる。
トラブルにも負けずニトリは海外生産を伸ばし、コスト競争力を向上させていく。中国、ベトナムにも委託工場を拡大し、生産比率の8割は海外となっている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら