――川崎市在住の山田さんは川崎市名誉文化大使に選ばれていて。ドラマにも川崎周辺を舞台とした作品を数多く発表されていますが。書く場所が作品に影響するということはあるのでしょうか。
僕は盛り場に住みたいという人の気持ちがよくわからないんです。これは僕の勝手な思いですが、たまに行くからいいのであって、そこが日常になってしまったら飽きてしまうと思う。だから僕はあまり住むところは特色がないほうがいいと思っているのです。僕の作品で多摩川周辺が舞台になるのも、土地勘があるから。ついつい情景が浮かびやすいのでそこを舞台にしているのです。
これはエッセーでも書いたことなのですが、テレビで多くの人が、ひと口食べてすぐに「おいしい」と言うじゃないですか。一概には言えないですけれど、そういったものはどこか底が浅い気がするんですよね。でも、日常に食べているものって、ひと口で食べて、おいしいと感じるものとは違った魅力があると思うのです。そんなに癖が強くなくて、それでも食べていくうちに馴染(なじ)んできて。それが積み重なってくる。たとえばそういったラーメン屋があったとして。外から来た人がそれを食べたとしても、「なんだ、普通のラーメンじゃない」と言われてしまうようなもの。おコメだってそうですよ。ひと口食べて、「うまい!」というようなものじゃないと思うんです。
住んでいる人じゃないとわからない美しさもある
――日常に目を向けると。
うちのそばには小さな公園があるんです。どこにでもあるような普通の公園です。お客さんが来た時に、わざわざ見せるようなものではありません。だけど、そこに住んでいると、雪の日だったり、ものすごく暑い時だったりと、公園のいろいろな姿が見えてくるわけです。これはすばらしく美しいなと僕は思うのだけれども、じゃあ人を呼んできて、美しいだろうと言って、すぐその威力がわかるというものでもない。日常生活というのはそういうものだと思うのです。
よく、川崎には人に見せるようなものがないと言う人がいるのですが、別にそれでもいいじゃないかと思うんです。毎日反復して、見ているものの美しさというものは、住んでいる人じゃないとわからないと思うのです。ある日、公園に行ったら、お年寄りがひとりでずっと座っていた、という情景に、ある種の美を感じる時もあれば、哀れみを感じることもある。わが身を振り返る時もある。そういうものだと思うんですよね。今は、1回見ただけですてきだということを言い過ぎるのではないでしょうか。そういうのはすぐ飽きちゃうのではないかとも思うのです。
――最近はすぐに結果を求められますし、効果を得られたら使い捨てになってしまうものが多いように感じるのですが。
そうですね。だから、そこに住んでいないとわからないような美しさに対する価値観というものがもう少しあってもいいんじゃないかなと思います。
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