博報堂を辞め、プロレスに挑む男が見た現実 「好きなことで、生きていく」のは甘くない

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中学校生活が始まった。第一志望の麻布高校、第二志望の海城高校にも落ちたものの中高一貫の男子校「攻玉社」に入学。彼の在籍時の実績では毎年、早慶に80名、東大にも10名程度入る進学校だった。

プロレス好きを公言したらバカにされそうな環境だった。そんなことはどうでもよかった。当時のプロレス界はノアなど一部の団体に勢いがあったものの、「K-1」「PRIDE」などが全盛期であり、動員にもおいても内容においても迷走気味の時期だった。その分、マイナーな分野、マイノリティーへの愛というものが高まっていった。

「1人プロレス研究会」でとことん没頭

八百長、やらせという批判なども、どうでもよかった。少年時代には、プロレス名鑑を暗記するほど読み漁り、気に入った試合は10回以上も見返した。二子玉川駅のTSUTAYAにあるプロレスのDVDはすべて3回以上借りた。「1人プロレス研究会」だった。

独特に刈り上げた髪型が印象的だ

水泳部と、習い事の空手に没頭しつつ、プロレスのことを常に考えていた。当時、19時から19時30分にかけてプロレスリング・ノアのテレビ中継が放送されていたのだが、ちょうど終了時間に始まる空手には5分遅刻して参加していた。

中3の時には、いじめも経験した。部活での人間関係がこじれた。そこでうまくいっていないという話がクラスにも伝わり、いじめられた。机の中に置いていた現代文の教科書が切られていたり、上履きに画鋲を入れられたり――。プロレスラーのようにそのワザを受け続けた。孤独を経験したが、その過程で同世代のコミュニティーには属さないというスタンスが明確になっていった。大人なども道場にやってくる空手に没頭し、上の世代との交流を持った。

高1の時は進学クラスから普通クラスに落ちた。水泳部もやめた。代わりに人間関係がリセットされ、新しい環境を楽しむことができた。高校が終わると毎日空手に通い、プロレスに没頭する日々が続いた。初めてプロレスを生観戦したのも高校1年生の時だ。新日本プロレスの両国国技館大会だった。2階の奥の席だったが、ボディスラムひとつとっても迫力があり、生のプロレスに興奮した。

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