「生徒を思うなら断固ぶん殴るべき」…令和の今観ると体罰・問題発言のオンパレードの「金八先生」なぜあそこまで支持されたのか?

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しかも、生徒も親も先生も当たり前のようにこのような関係性を育んでいることが凄まじい。企業戦士として家を空けがちだった昭和において、学校はしばしば家庭の情緒的機能を肩代わりしてきた。金八先生が背負っていたのは、単なる「熱血教師」ではなく、社会から外注された“第二の父親”という役割だったのだろう。

だからこそ、現代の視点で、金八先生に「ワークライフバランスだから」「働き方改革だから」という理由でこれらの言動を咎めるようならば、それこそ河川敷でビンタをお見舞いされてしまうだろう。「この、バカちんがぁー!」と。

今、求められている教師像を学園ドラマから読み解く

と、ここまで令和を生きる筆者の視点から、昭和真っ只中の金八先生を見てきたが、あぜんとしながらも、一方で清々しさも覚えた。

金八先生は、絶対的な解を提示してくれる一方で、よき兄貴分としても頼りになるし、威厳をもって生徒を導く一方で、生徒の傍で奮い立たせてくれる。

また、「成長神話」が崩壊するなかでもまだ「成長」を信じ、望んでいた当時の日本人に、金八先生を理想とするのも分からなくはない。共通一次試験という「全国一斉に同じ問題を解いて数値化する」教育制度が導入され始めた時代に、教師に「正しい解」を求めるのは当然の流れだろう。

しかし、このような金八先生は、もはや再現不可能だ。それは、現代の教師の熱意が失われたからではない。価値観の多様化や個別化が進み、社会が同じ正解を共有できなくなったからである。

今、求められているのは金八先生のような「説得する熱血教師」ではなく、「個々の価値観を肯定しながら一緒に伴走してくれる」御上先生のような教師像なのだろう。

後編では、『御上先生』などで描かれた教師像を手がかりに、「正解がない時代」において、教師に求められる役割がどのように変化したのかを考えていく。

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