織田信長の家臣である篠原主計(かずえ)の娘・まつと結婚するなど順風満帆に見えたが、永禄2(1559)年にある事件が起きる。
信長側に仕える拾阿弥(じゅうあみ)が面白半分に、利家の笄(こうがい:日本刀の鞘に取り付けられた小道具)を盗み出したところ、利家が拾阿弥を斬り殺してしまったのだ。
拾阿弥は、かねて信長のお気に入りであることをいいことに、好き放題にふるまっており、反感を持つ者が多かった。利家からすれば、織田家のために斬ったようなものだったが、この不始末に信長は激怒。利家に出仕停止処分が下されてしまう。あやうく死罪にされるところを、柴田勝家や森可成らがとりなしたとも言われている。
許してもらうためには、戦で結果を残すしかない。そう考えたのだろう。利家は謹慎中の身でありながら、密かに戦に参加。永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」で戦功を挙げている。
それでも許されず、翌年の永禄4(1561)年に美濃へ侵攻した「森部の戦い」で活躍したことで、家臣団に復帰したようだ。『信長公記』には、次のように記されている。
「前田利家は、以前、信長から譴責(けんせき)処分を受けて、この時はまだ出仕を許されていなかった。今川義元との合戦でも、朝の戦いで首一つ、敵方総崩れの際にも首二つを取って提出したが、それでも出仕を許されなかった。このたびの手柄によって、前田利家は赦免された」(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
結果的には、2年程度で出仕停止が解かれることになったが、いつ許されるかわからない本人にとっては、永遠にも感じられたことだろう。周囲から人が離れていく中、柴田勝家はこれまでと変わらず親密にし、利家を励ましたという。
勝家の人柄が伝わってくるが、このときの思い出がのちに利家を苦しめることになる。
利家が秀長とともに挑んだ合戦とは?
利家は永禄12(1569)年、信長に命じられ、利家が兄の利久に代わって家督を継ぐことになる。
『村井重頼覚書』によると、「病弱にして、武者道御無沙汰の状態」と信長に判断されて、強制的に隠居させられたようだ。信長からすれば、戦での功績が充分ではないと不満があったのかもしれない。


















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