加賀前田家といえば、伽藍(僧が集まって仏道を修行する場所)や名物裂(茶の湯道具の茶入や茶碗をいれる袋)などを見てもわかるように、豪華絢爛な文化を築いたことで知られる。「傾奇者」だった利家の趣味が受け継がれたといってよいだろう。
利家は幼名が「犬千代」だったため、信長からは「犬」と呼ばれ可愛がられたようだ。信長が「猿」と呼んだ秀吉と利家が親しい仲だったのも面白い。
真っ先に敵陣へ!戦場で大暴れした「槍の又左」
血気盛んな性格だったらしく、初陣となった「萱津の戦い(かやづのたたかい)」では真っ先に敵陣に突入。この戦いは信長と清須織田家の重臣である坂井大膳との間で起こったものだったが、利家が一番首を挙げ、信長から武功を賞賛された。
槍の名手だった利家。通称が「又左衛門」だったことから、やがてこう呼ばれたという。
「槍の又左」
弘治2(1556)年8月、織田信長と弟・信勝との間で起きた「稲生の戦い」では、大活躍だったらしい。敵の矢が右目の下に突き刺さりながらも奮戦した、という逸話が残っている。このときの勝利によって、利家は百貫文を加増され、のちに苦楽をともにする村井長頼を家臣に召し抱えることになる。
永禄元(1558)年には、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」が勃発。そこでも功積を挙げた利家は、信長の親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭に抜擢されている。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら