「すぐ他人を怒る人」と「怒らない人」の決定的な差――なぜ満たされない人ほど、他人を論破する"正義の暴走"が起こりやすいのか

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●「勝手に失望し、勝手に怒る」人

また、相手への「依存」が正義中毒を生んでいることもあります。

尊敬する人やあこがれの人から強い影響を受けることはよくあります。尊敬する上司やあこがれの成功者など、自分が「正しさ」のお手本にしている人が、突然いままでと違う言動をしたらどうでしょう。

場合によっては、それまで抱いていた尊敬の念が一気に崩れ、「裏切られた。とんでもないやつだ!」と怒りがわくかもしれません。

じつは、これは、本当の尊敬ではないのです。

自分の理想をその人に投影して、「同じ正しさ」を共有していることに喜びや安心感を得ていたのに、急に相手の言動が変わって裏切られた気になる。そして怒るわけです。

しかし、前に述べたように、それは勝手に失望して、勝手に怒っているにすぎません。しかも、無意識のうちに相手に「完璧さ」を求めているので、「相手の変化」が許せなくなるわけです。

相手にとっては成長や成熟、成功のために必要な変化なのですが、それに依存している側からすると「前はこういっていたのに……」と理解できません。

そして、離れていったり、「裏切られた!」「許せない!」とその人を攻撃したりするのです。

正義は絶対的なものではない

●「変化を受け入れられずに怒る」人

この状況に似たエピソードがあります。

お釈迦さまが6年間、苦行林で厳しい修行を続けていたときのことです。その間、父である浄飯王は息子を案じ、5人の従者を護衛として派遣していました。

6年が経過した頃、お釈迦さまは苦行の限界を感じていましたが、そんな折、スジャータという女性がお釈迦さまにお粥を差し出しました。お釈迦さまはいままでは断ってきました。

しかし、このときは素直に受け取って食べたのです。これを見た5人の従者は、お釈迦さまが修行を放棄したと思い込み、失望のあまりお釈迦さまから離れていってしまいました。

5人には「お釈迦さまは優れた苦行者」というイメージがあったので、尊敬していたお釈迦さまがお粥を食べたことが許せなかったのです。

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