「フットワークが軽くて口が達者」 大河「豊臣兄弟!」 豊臣秀吉が織田信長に気に入られた本当の理由
諸国の事情に通じた秀吉を、同書は「才覚」ありとしています。生駒屋敷において、秀吉がたまたま出会ったのが、尾張国海東郡の国衆・蜂須賀小六でした。
小六は秀吉を見て「面構えが良い」ということで、召し抱えたということです。秀吉は「小兵」(体格が小さい)でしたが「武辺」(武術)を好んだということ。どこにでも軽々と出入りしたということです(今風に言うと、フットワークが軽いということでしょう)。
口達者でもあり、人がなかなか口にできないような「色話」なども御前で平気で口にしたと記されています。『武功夜話』に記された秀吉は、ドラマ等で度々描かれてきた秀吉像と似通っているように思います。
同書に「鬼子」(異様な容貌を指したものか。それとも荒々しく力強いという意味か)とも記された秀吉に運命の出会いが訪れます。
生駒屋敷に織田信長がやってきたのです。御前に召し寄せられた秀吉は、信長と対話することになります。
しかし、秀吉はそこでも普段と変わらず。面白話や馬鹿話をしたようです。それを信長は機嫌よく聞いていたとのこと。秀吉はその際、信長に「武者奉公」を直訴したのでした。側にいた生駒家長は「お前のような小兵、腕の力もなく、太刀振りも覚束ないであろう。心得違いも甚だしい」と秀吉に諭したとされます。
だが、秀吉はそれでも諦めず、生駒久菴(吉乃。信長の側室)に「御大将の馬の口取りでもよいので、御用を」と懇願。久菴の筋から信長に働きかけて、ついに秀吉は信長に仕えることになったと同書は記すのでした。
生駒氏の娘で信長の側室・吉乃が、秀吉の織田家への奉公を仲立ちしたという記述が『武功夜話』にはあるのです。
資料によって異なる信長と秀吉の“接点”
一方で江戸時代初期の旗本によりまとめられた秀吉の伝記『太閤素生記』には、信長に小者として既に仕えていた友人(一若)を頼み、秀吉は織田家に奉公したと書かれています。
また『太閤記』には叔父と相談した上で、奉公したいと信長に直訴したと記されています。



















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