「フットワークが軽くて口が達者」 大河「豊臣兄弟!」 豊臣秀吉が織田信長に気に入られた本当の理由

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では、織田部将として上洛戦に参加するまでに、秀吉はどのような活動や生き方をしていたのでしょうか。信憑性ある史料からはなかなか窺い知ることはできません。『太閤記』や『武功夜話』など後世の伝記・軍記物類に頼らざるを得ないのです。

『太閤記』(儒学者・小瀬甫庵により書かれた秀吉の伝記)には、秀吉が信長に仕えるようになった頃のことが書かれています。

「気がよく利くであろう」ということで、織田家に雇用された秀吉。「筑阿弥の子ということで、小筑」と信長は秀吉を呼んでいたようです。秀吉は新参者でしたので、信長の御前にすぐに侍ることは当然できません。よって、信長の近習に近づき、そこから御用を承っていたとのこと。

一両年はそのように過ごした秀吉。犬山城(愛知県犬山市)の近辺で焼き討ち騒動があった時に信長に接近する機会を得ます。

信長は未明に出陣しようとするのですが、馬をおとなしくさせている者がおりました。「誰ぞ」と信長が問えば「木下秀吉」との答えが返ってきます。秀吉は信長の出馬に備えて、信長が乗る馬をなだめていたのです。

それとはまた別の日。鷹狩りのため、暁に出立する信長。「誰かある」と呼べば「藤吉郎、これに候」とそこにもまた秀吉の姿がありました。『太閤記』からは、先んじて信長に接近しようとする秀吉の姿が描かれています。そうこうするうちに、秀吉は信長の御用を直に承るようになったのでした。

信長の家臣に取り入る

さて、尾張国の土豪・前野家の家伝史料『武功夜話』にも若き頃の秀吉の動向が記されています(同書を偽書とする研究者もいる一方で、一次史料の空白を補う文献として貴重とする歴史家もいます)。

同書では、秀吉は尾張国中村の村長の倅とあります。若い頃に志を立て、実家を出て、駿河・遠江・三河国を放浪。

弘治2年(1556)、秀吉がたどり着いたのが、織田家に仕える生駒氏の屋敷でした。秀吉は「小才」をもって、生駒家の人々に取り入り、同家に滞留することになったといいます。

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