M-1で「説明のいらない一言」が笑いになる時代 「恐ろしくて、ばかばかしい」分断を描く《ミッドサマー》監督新作の凄さ

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ホアキン・フェニックス演じる保安官ジョー(左)と、ペドロ・パスカル演じる市長テッド。同じ町に生きながら、異なる「正義」と現実を信じる2人の対立が、物語を駆動していく。『エディントンへようこそ』2025年12月12日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開(写真:©2025 Joe Cross For Mayor Rights LLC. All Rights Reserved.)
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かつて、社会は1つの現実を共有していました。意見が分かれることはあっても、「何が起きているか」についての前提は、どこかで保たれていた。しかし、今は違います。12月21日に放送された『M-1グランプリ』でも、陰謀論的な世界観を前提にしたネタが、説明抜きで笑いとして成立する場面がありました。その軽やかさは、いまの時代をよく表しています。
そうした感覚と地続きの場所で、映画『ミッドサマー』で知られるアリ・アスター監督が新作『エディントンへようこそ』で描こうとしたのは、恐怖そのものではありません。「現実の共有が失われた世界」に生きる人間の姿です。

信じている現実が一致しない

過日、来日したアリ・アスター監督は、現代社会について「もはや人々は同じ現実を生きていない」と語りました。

かつては、同じニュースを見て、同じ出来事を前提に、議論ができた時代があったことをふと、考えさせられる言葉です。

実際、今は情報源が分断され、それぞれが異なる物語を信じています。何が事実か以前に、「どの現実に立っているのか」が一致しないのです。その結果、人と人は容易に到達不能な状態になっています。

監督が繰り返し語っていたのは、対立そのものよりも、「互いに到達できなくなっている」という感覚でした。新作映画『エディントンへようこそ』の舞台となるのは、ニューメキシコ州の1つの小さな町です。人々は同じ場所に暮らし、同じ出来事を目撃しています。それでも、彼らは同じ現実を共有していません。

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