こうした分断が加速した背景として、監督はテクノロジーの存在を挙げます。スマートフォンによって、私たちは常にインターネットと接続された状態で生きるようになりました。情報の流通は圧倒的に速く、しかも規制やルールは追いついていません。
監督はこれを「私たち自らが実験台になっている」と言葉にしています。新しい技術の影響を、社会全体で引き受けながら、手探りで生きているという認識です。
また作品内ににも、こうしたテクノロジーを思わせる存在も描かれています。郊外に建設される巨大なデータセンターは、表向きには進展の象徴として描かれる一方で、それが人々の生活や思考を、知らないうちに変えていくきっかけとして置かれています。監督自身が「映画はデータセンターの建設から始まり、そこに終わる」と語るように、それを作品の核心と捉えているのです。
とりわけAIについて、監督は「善悪を判断しない増幅装置」だと語ります。AIは何かを選別するのではなく、既にあるものを加速させる。信頼や連帯を強める方向に作用することもあれば、不信や混乱を一気に拡大させる場合もある、という意味です。
監督が問題として挙げるのは、今の社会がどこに向かっているのか、という点です。分断が進み、互いを信じられなくなった状況を、さらに加速させることが本当に望ましいのか。監督はこの点について、「今の社会が向かっている方向に、私は強い不安を感じている」と語っていました。
さらに監督は、この世界を「恐ろしく、悲劇的で、同時にばかばかしい」と言い表しています。危機は深刻であるにもかかわらず、どこか滑稽で、真剣に受け止めること自体が難しくなっている。その感覚は、「いまのミーム文化とも重なる」と指摘します。複雑で不安をかき立てる出来事が、短い言葉やユーモアで一気に消費されていく。そのあり方に、監督は違和感を抱いています。
「自分こそが真実を見ている」という思想
この構造は、アメリカ社会に限った話ではありません。冒頭で触れたように、日本でも「M-1グランプリ」の最終決戦まで残ったコンビの漫才に見られたように、ある種の世界観が前提として共有されていること自体が、「説明のいらない一言」として笑いになる場面が増えています。
不安や違和感が、ユーモアという形で薄められ、日常に溶け込んでいく。その軽やかさは救いであると同時に、危うさも孕んでいます。

















無料会員登録はこちら
ログインはこちら