福田組『新解釈・幕末伝』で山田孝之が演じた木戸孝允、真の意味で強かった「逃げの小五郎」 の素顔とは
幕府の追っ手から逃れるために「広戸孝助」をはじめに10個以上の名前を使っていた小五郎。その甲斐あって幕府の追手から逃げおおせて、長州藩のリーダーに返り咲いたが、そのときに問題になったのが、いわば幕府から指名手配されている「桂小五郎」を藩の責任者だと公言できないということだ。
そこで、長州藩主・毛利敬親から与えられたのが「木戸」の姓である。明治維新後に氏と名を登録する際には、8歳で桂家当主を引き継いで以来の諱である「孝允」と組み合わせて、「木戸孝允」とした。
やがて倒幕という大業を果たした小五郎は、明治維新後は「木戸孝允」として、「桂小五郎」時代にも負けないほどの活躍を見せることになる。各藩の土地と人を朝廷に返上させた「版籍奉還」と、藩を廃して県を置く「廃藩置県」を、木戸は積極的に推進。明治の大改革に情熱を注ぎ、実現へと精力的に動いた。
明治新政府では、西郷と大久保に説得されて、今で言う「首相」にあたる「参議」を引き受けたこともある木戸。まさに近代日本の礎を築くのに欠くことができない人物だった。
「西郷、いい加減にせんか!」
しかし、何度となく命の危険から逃れ、明治維新の原動力となった木戸も、病気には勝つことができなかった。ドイツ人医師のウィルヘルム・シュルツは「難治性の胃病」と診断したが、実際は胃癌に冒されていた。
1877(明治10)5月26日、木戸が死の床についたときは、西南戦争の真っ最中であった。西郷による突然のクーデーターに、木戸はすぐさま「自ら鹿児島征伐にあたる」と志願したが、それは叶わなかった。容態が日に日に悪くなっていたからである。
見舞いには明治天皇も駆けつけたが、木戸が回復することはなかった。意識が朦朧とするなか、木戸は西郷への怒りをぶつけた。
「西郷、いい加減にせんか!」
戦場で散ったわけでもなければ、薄命だったわけでもない。しかし、彼の生涯を知れば、その最期は日本史のハイライトに刻まれる一場面に違いなかった。
死のまさに直前まで日本の行く末を憂いながら、“逃げの桂小五郎”は45年の生涯に幕を閉じた。
【参考文献】
日本史籍協会編『木戸孝允文書(全8冊)復刻』(マツノ書店)
村松剛『醒めた炎―木戸孝允 上・下』 (中央公論社)
大江志乃夫『木戸孝允―維新前夜の群像4』(中公新書)
松尾正人『木戸孝允 幕末維新の個性8』(吉川弘文館)
勝田政治『廃藩置県 近代国家誕生の舞台裏』(角川ソフィア文庫)
松尾正人『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』 (中公新書)
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