福田組『新解釈・幕末伝』で山田孝之が演じた木戸孝允、真の意味で強かった「逃げの小五郎」 の素顔とは

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「太平の世の古い習慣を一新させ、蛮夷を排除し、上は皇帝をお守りし、下は万民を大切に育てることが大事と存じます」(木戸公伝記編纂所編『松菊木戸公伝』より。現代語訳は筆者)

このとき、小五郎は21歳。幕府の危機に奮い立つ青年の息遣いが聞こえてきそうな文面だ。

剣の腕を磨きながら、小五郎は洋式兵術や造船術も学び、1854(安政元)年には藩から命を受けて、スクーナー型帆船の建造を調査している。

新しい時代のうねりを目の前にして、小五郎は逃げるどころか、積極的に困難に立ち向かい、自分の知識や技術を磨いていた。

間一髪だった「池田屋事件」

1859(安政6)年、小五郎は江戸藩邸の有備館用掛を命じられる。有備館は江戸詰藩士たちの教育機関である。27歳という年齢で、野望を抱えて藩地から江戸に出てくる青年たちの教育責任者となったのだから、藩が小五郎にかける期待の高さがうかがえる。

そんななか、1863(文久3)年に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派がクーデーターに成功。長州藩を主とする尊皇攘夷派は、京都から追放されて失脚する。いわゆる 「八・一八政変」である。

一転して追われる身となった尊攘志士たち。1864(元治元)年には、京都の旅館・池田屋が、新撰組からの襲撃を受ける。そこで会合を開いていた長州藩士のうち、7名が命を落として23名が捕まった。この池田屋事件によって、新撰組は一気にその武名を轟かせることになる。

そのとき、間一髪の危機から逃れたのが、小五郎だった。

小五郎は一度は池田屋に足を運んだが、到着した五つの頃(午後8時頃)の時点でまだ同志が集まっていなかったため、いったんその場を離れた。新撰組が襲ってきたのは、まさにその間だったというから、かなりの強運である。

決して敵前逃亡をしたわけではなかったが、結果的に咄嗟の判断によって命が助かったことから、これも「逃げの小五郎」と呼ばれる理由の一つとなっている。

次ページとにかく逃げる
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事