福田組『新解釈・幕末伝』で山田孝之が演じた木戸孝允、真の意味で強かった「逃げの小五郎」 の素顔とは

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

小五郎が養子に入ってわずか20日後に義父は死去。そのまま幼い小五郎が当主の座を継いだが、さらに翌年には義母も死去。小五郎は、90石取りの中士の家の当主のままで、実家の和田家へと引き取られることになった。

いつの間にか当主の地位を手に入れた小五郎は、裕福な幼少時代を過ごした。下級藩士から這い上がった大久保や西郷とは大違いである。後世、英雄譚として語られるには、どうしてもインパクトに欠けてしまう。

時代の変革に立ち向かう剣の達人

「逃げの小五郎」というあだ名から「斬り合いに弱い」というイメージを持たれやすいが、実は剣の達人である。

1846(弘化3)年、小五郎は14歳で、長州藩の師範代である柳生新陰流剣術の内藤作兵衛に入門。剣術の修行に打ち込んだ。ちなみに6年後には、14歳の高杉晋作も、同じ道場の門を叩くことになる。

そして、1852(嘉永5)年、小五郎は剣術修行のために江戸へ出ていく。思い切った決断だが、1人だったわけではない。江戸の剣客である斎藤新太郎が萩にやってきたことをきっかけに、藩が各剣術家から門弟を5人選び、江戸へ1年間遊学させると言い出したのである。

昔から江戸に出たかった小五郎にとってはチャンスだったが、残念ながらメンバーの5人には選ばれなかった。同じ門下生からは3人が選ばれているだけに悔しかったに違いないが、小五郎は私費による江戸修行を願い出て、それが認められることになった。

江戸に出た小五郎は、麹町3番町にある新太郎の父・弥九郎が開く道場に入門。そこで頭角を現して、翌年には、斎藤道場の塾頭に抜擢されている。その後、藩命で帰藩する1858(安政5)年までの5年間にわたって塾頭を務めていることからも、剣の腕前は抜群だったようだ。

1853(嘉永6)年、ペリー率いる黒船が来航。幕府の命で長州藩は相模の海岸警備を命じられ、小五郎も江戸郊外の大森海岸へ出勤した。

小五郎は藩当局への意見書で「誠に武士の名誉で、ご先祖様もさぞ喜んでいることかと存じます」として、さらに意気込みをこう述べている。

次ページ並々ならぬ熱意
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事