【超巨大戦艦「大和」の復元に懸けた男たち】沈没したときの姿はどうだった? 海底映した60時間の映像と2000枚の画像を解析して見えてきたもの

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また福井静夫資料には、設計主任であった牧野茂氏の資料が含まれている。そのほか、大和基本計画のメンバーだった松本喜太郎氏の資料が、財団法人史料調査会から移管された。このほかにも、泉江三氏から武蔵関係の資料が提供され、大和型戦艦に関しては、現存する1次資料のほぼすべてが集められたのである。

とくに北木資料は図面の第2原図、写真でいえばネガにあたる図で、オリジナルの図面そのものといってもよい。絹の布で裏打ちされた和紙に直接烏口(からすぐち)で書かれたもので、青焼きした図面のように、紙の伸び縮みによる誤差や、日焼けによる判読困難のまったくない、鮮明きわまるものだ。

この図のうち何枚かには「西畑」というサインがあった。西畑作太郎氏には、図のチェックをお願いしたうえ、書かれた当時の様子を聞けた。これによって、ライン1本1本の意味を理解することができたので、製作図に大きく反映した。なかでも前艦橋と後艦橋の図は大和の顔に相当する部分である。これは、十分の一大和建造にあたって最大の資料となった。

2度の大改装を経ている大和の写真をどう扱うか

大和の艤装(ぎそう)品の多くは海軍の規格品なので、他の軍艦の図面をもとに調査することになる。ここで問題になるのは、写真の扱いである。

図面は基本的には正しいと考えられるが、作業上の都合から現場で手直しを受けることがある。だから、実際の艦を再現するのであれば、図面よりも写真を優先するほかはない。しかし、その写真がいつ撮影されたものかが明らかでないと、刻々と変化していった大和の姿を確定することはできない。実際に大和は2度、大きく改装されている。

1度目は昭和19年(1944年)2月のことだ。両舷側(げんそく)に装備されていた副砲を撤去して、高角砲を6基12門増備し、機銃も増やした。大和はこの姿でマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加している。

2度目は同年11月、さらに25ミリ機銃を増設するなど、徹底的に対空兵装を強化した。のちに沖縄特攻作戦に参加したときには、仮設の25ミリ機銃も搭載され、その一部は防弾用の土囊(どのう)で囲まれていた。こうした細かな変化を確認することは、ほとんど不可能に近い。

ちなみに沈没したときの姿は、米軍機から視認されにくいよう甲板が黒く塗られ、損害箇所を直ちに把握できるように、船体のフレーム箇所を示す白線が引かれていた。搭載機は呉で降ろされ、艦尾の空中線支柱も撤去されていたことが、米軍の撮影した写真から判断できる。

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