<格闘家が医学部受験>タイで極貧のムエタイ修業後、たった3カ月の勉強で医学部に合格した救急医の面白い人生

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岡田さんは大分県大分市に、父親が外科医、母親が看護師の家庭に生まれ育ちました。

3歳から小学校3年生まで水泳、小学校3年生から中学校3年生までハンドボールとスポーツに打ち込んできた岡田さん。勉強面も、小学校〜中学校時代の成績ははっきりとは覚えていないものの、真ん中よりは上だったそうです。

「男4人兄弟の長男として生まれました。父親が厳しくて、教育熱心というよりは『男だから勝負事は負けるな』という感じで負けず嫌いでした。自分も、父のように負けず嫌いな性格だったので、スポーツだけじゃなくて、勉強の方も頑張れたのだと思います」

父親との写真(写真:岡田さん提供)
父親が外科医、母親が看護師の家庭に生まれ育ちました(写真:岡田さん提供)

岡田さんが通っていた公立中学校では、ハンドボールが強く、全国レベルの実力がありました。そこで、スポーツ推薦でハンドボールが強い学校も考慮しつつ進路を考えていましたが、担任の一言で方針を転換し、県内有数の進学校に挑戦します。

「担任の先生からは、『学力的には上の高校に行けるし、ハンドボールで将来飯は食っていけないから、上のところに行ってみな』と言われ、大分上野丘高校を受験することになり、合格できました。

余裕で合格するようなレベルではなくて、運にも恵まれました。前年までは僕らの市内の子が優先的に合格していたのですが、受験する年になってからそれが廃止されて、大分県の中学ならどこからでも人数制限なく受けられることになりました。

それで『倍率が上がるんじゃないか』と受験生が警戒して、受験する子が少なくなり、結果的に落ちた人がいないくらいのラッキーな年にたまたま入学することができたんです」

周囲の期待で医学部を志望も、本当にやりたいことは…

ラッキーもあって、大分上野丘高等学校に進学することになったと語る岡田さん。しかし、学校に入ってからも順位を落とすことはなく、学年360人の中で100人以内には入っていました。運動面も新たにラグビーにはまり、文武両道の学生生活を送っていました。

当時の志望は医学部でしたが、その希望には親戚からの要望が大きく影響していたそうです。

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