「再開発は街の情緒もなくす」と思われがちだが…"渋い街"「業平橋」はいかにして、新旧混ざり合う"おしゃれな街"になったのか

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押上・業平橋エリア
観光客・買い物客が集まる下町に変わった押上・業平橋エリア(筆者撮影)
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なにかとネガティブなイメージを持たれやすい再開発。古いエリアを潰して、新しくて巨大な施設を作るが魅力に欠ける……というように語られやすい。しかし、今回取り上げる施設は違う。むしろ下町らしさを受け継ぎながら、東東京をより魅力的な街に変えた。
さまざまな街にある商業施設を、「どのようにして街を変えたか」という観点からレポートする本連載。今回は「押上・業平橋」周辺を歩く。

前編では、東京スカイツリーだけでなく、大型商業施設「東京ソラマチ」があることで、押上・業平橋エリアは観光客や買い物客が集まる街に変貌したと述べた。

今や東京タワーと並んで、東京の代表的な観光地となった押上・業平橋エリア。以前はどのような街だったのだろうか。

北十間川と駅の役割から街の歴史を紐解く

押上・業平橋の街の歴史は、「東京ソラマチ」につながる「とうきょうスカイツリー駅」、そして目の前を流れる「北十間川」が語り継いでいる。

Googleマップ
「東京ソラマチ」の西にとうきょうスカイツリー駅、東に押上駅があり、南に北十間川が流れている(出典:Googleマップ)
北十間川
「東京ソラマチ」の目の前を流れる北十間川(筆者撮影)

北十間川は江戸時代、「農業用水路」として使われていた。その頃、押上・業平橋エリアは農地が広がる江戸の郊外だった。

1902(明治35)年に、現在のとうきょうスカイツリー駅である「吾妻橋駅」が開業。一時廃止されたのちに貨物駅として再開業し、貨物が舟に積みかえられて運ばれた。北十間川は「物流用の運河」として活躍した。

大正以降、周辺の街が造成され町工場が建てられると、北十間川は「工場用水路」へと役割を変えていく。1945(昭和20)年の東京大空襲により町工事は失われてしまったが、戦後、大工場や中小の町工場が建てられた。

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