前編では、東京スカイツリーだけでなく、大型商業施設「東京ソラマチ」があることで、押上・業平橋エリアは観光客や買い物客が集まる街に変貌したと述べた。
今や東京タワーと並んで、東京の代表的な観光地となった押上・業平橋エリア。以前はどのような街だったのだろうか。
北十間川と駅の役割から街の歴史を紐解く
押上・業平橋の街の歴史は、「東京ソラマチ」につながる「とうきょうスカイツリー駅」、そして目の前を流れる「北十間川」が語り継いでいる。
北十間川は江戸時代、「農業用水路」として使われていた。その頃、押上・業平橋エリアは農地が広がる江戸の郊外だった。
1902(明治35)年に、現在のとうきょうスカイツリー駅である「吾妻橋駅」が開業。一時廃止されたのちに貨物駅として再開業し、貨物が舟に積みかえられて運ばれた。北十間川は「物流用の運河」として活躍した。
大正以降、周辺の街が造成され町工場が建てられると、北十間川は「工場用水路」へと役割を変えていく。1945(昭和20)年の東京大空襲により町工事は失われてしまったが、戦後、大工場や中小の町工場が建てられた。


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら