西洋哲学の源流はここにたどりつく。不当な判決に異議を唱えず自らの信条のために毒杯を飲むことを選んだソクラテスの生き方とは

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ソクラテスは人々に質問を投げかけ、彼らの答えから矛盾点を探して、もう一度質問する方法をくり返すことで、人々をアポリア、つまり、“行き止まり”に追いこんだ。

この過程で人々はみずからの無知に気づき、本当の哲学をはじめてほしいと考えたのだ。ソクラテスのこのような対話方法を「産婆術」という。

不当な疑いで監禁されたあげく

産婦が1人で子どもを産むのではなくて、産婆が自分の経験を土台にして産婦の出産を助けるように、ソクラテスは自分も他の人が真理を身ごもり出産できるように、ただ手助けをするだけだと考えていた。

ソクラテスは生涯、アテナイ人が真理にたどり着けるよう手助けをしていたけれど、晩年になるとメリトス、アニトス、リコンなどから訴えられた。罪名は青年たちを堕落させた罪と、神聖を冒涜した罪だった。

訴えた人たちは、ソクラテスが青年たちに誤った教えを伝え、アテナイの神ではない、他の神を信じていると主張した。ところがこれは表面的な理由であり、実際の理由は政治的なものだった。

当時のアテナイは、ペロポネソス戦争でスパルタに負けてからまだ日が浅く、混乱していた時期だった。

問題は、ソクラテスの弟子たちが、僭主制とつながっていたという点だ。30人僭主制の指導者クリティアスがソクラテスの弟子だったし、かわいがっていた弟子のアルキビアデスは、ペロポネソス戦争当時にアテナイの最高首脳部だったけれど、敵の罠にかかって敵国スパルタに亡命したのだった。ソクラテスがスパルタとつながっていると疑われても仕方がなかった。

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