「横浜駅の喫煙所でボロボロ泣きながらタバコを…」"現役外科医の人気作家"中山祐次郎氏「受験全滅、親のすねかじった」浪人時代

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中山さんに浪人を決意した理由を伺ったところ、「今思えば傲慢な話ですが、医者になれないと生きていけないと思っていたため」と答えてくれました。

1浪目は代々木ゼミナールの横浜校に入り、医学部コースで勉強を重ねた中山さん。その甲斐あって、今まで医学部の判定がEしか出ていなかった模試で、地方の国公立大学ではC判定が出るようになったと語ります。

「医学部コースは60人くらいいて、湘南、横浜翠嵐、栄光などトップ校ばかりでした。みんな仲良しになりましたが、予備校の1年目は麻雀をやったりパチンコやスロットにハマったりするカルチャーがありました。

自分も、格好は流されて金髪でジャージだったのですが、遊ぶのは違うだろうと思っていたので、勉強をすごくやりました。今思えば、予備校のカルチャーは楽しかったですし、共学の雰囲気を味わえたのもあって自習室でも浮ついた気持ちでいたなと思います。量はやりましたが、そこまで没頭できなかったという点では、甘かったですね」

当時は十分勉強をして臨んだはずの1浪目のセンター試験でしたが、結局実力を発揮しきれずに640/800点に終わります。医学部に入れればどこでもいいと考えていたとはいえ、なかなか厳しい成績だったこともあり、2次試験の配点が高い大学を探した中山さんは、前期で札幌医科大学、後期で岐阜大学の医学部を受験し、『結構できた』と思ったもののどちらも落ちて2浪が確定しました。

金髪だった浪人時代(写真:中山さん提供)
金髪だった浪人時代(写真:中山さん提供)

3浪はできる気がしなかった

2浪が確定した中山さんは「一度は目の前が真っ白になった」と語ります。何年かけても医師になろうとは思っていたものの、ずっと勉強をしていたので、「3浪となったらしんどくて生きていけないと思っていた」と当時を振り返ります。

2浪目も特待生扱いで代々木ゼミナールに通って勉強をしていたものの、周囲が1浪目の学生ばかりで敬語を使われていた中山さん。それでも、社会的に見ると1個下の人たちと同学年になることが屈辱的だったこともあり、麻布出身の2浪の医学部受験生と身を寄せ合うようにこそこそと過ごしていたそうです。

それでも、勉強の量は前年よりもさらに増えました。

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