「横浜駅の喫煙所でボロボロ泣きながらタバコを…」"現役外科医の人気作家"中山祐次郎氏「受験全滅、親のすねかじった」浪人時代

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「ゲリラが東南アジアのどこかの国の村を襲ったという内容でした。そのゲリラたちは、村の10歳〜15歳程度の子どもたちだけを連れ去りました。

男の子は1つのグループに固めて、その中の1人を殺させて兵士に鍛え上げ、女の子は無理やりレイプをされて兵士を作るという内容だったのです。

私は衝撃を受けました。この子達は同い年で酷い目に遭っているのに、どうして自分は平和で幸せな日本に生まれてのうのうと生きているんだろうと。この世界ってもしかしてめちゃくちゃ不公平なのではないかと思い、なんとかしなければならないと思って色々考えたのです。

大金持ちになって寄付はできそうにないし、革命家は短命で幸せそうに見えない。そこで、医師になって直接現地に出向き、世の中の人を治すことで、この世の中で一矢報いられるのではないかと思いました。今でもその気持ちは持ち続けています」

しかし成績は悪いまま…浪人生活が始まる

「自分の人生も幸せにしたい」という思いがあった中山さん。医師と一緒に抱えていた当時のもう一つの夢は、小説家になることだったそうです。

しかし、成績は悪いままで、高校2年生に上がった最初の試験では理系のクラスでビリでした。

「どうやって勉強をすればいいのかがわかりませんでした。学習計画を立てる能力が全くなかったし、推敲する能力もありませんでした。数学の『チャート式』や医学部の赤本を買って解いてはみるのですが、中学校・高1の勉強内容が身についておらず、基礎がないから全くわからないままでまるで勉強ができませんでした。

当時の模試の全国の偏差値は52程度で、医学部受験ができるような数値ではありませんでしたね。高3になったら流石に必死に勉強しましたが、その時点でも基礎が全然ダメなのに気づいてなくて、成績はガタガタでした」

高校3年生のセンター試験では580/800点に終わった中山さん。国公立しか進学が難しいという親の方針で私立の医学部の受験が厳しかったこともあり、前期で山梨大学医学部、後期で岡山大学医学部を受けますが、結果は全滅。浪人を決意します。

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