「ブランド力ない」「勝てる戦場へ行く」元Jリーガー(30)が見据えた"将来"。特殊清掃という仕事にキャリアチェンジした本当の訳《後編》
しかし、プロのレベルに近づくと、彼のドリブルは特別な武器ではなくなっていった。
試合にも出られなくなり、伸び悩んでいたとき、コーチからトップ下からサイドバックへの転向を勧められた。スキルの高い選手が集まっている中盤のポジションでは目立たなくなっていたドリブルも、ディフェンダーの中ではトップクラスになれる。ポジションを変えることで輝きを取り戻した尾身さんは再ブレイクを果たし、高校クラブチームの頂点に立った。
一方で、この成功体験がかえって「J1、J2の選手になれなかった」理由にもなってしまったとも吐露する。どういうことなのだろうか。
不要なプライドが足かせに
「自分で言うのもなんですが、高校時代に優勝していなくて、年代別の代表にも選ばれていなかったら、J1、J2でプレーできていたんじゃないか。若いうちに日本一、代表という頂点を知ったばかりに、そこで満足してしまい、調子に乗ってしまったところが間違いなくあった。プロとしては失格のメンタルでしたね」
進路を決める高校3年の夏に大ケガを負って、トップ昇格できなかったという不運もあったが、そうでなくても「心が未熟だったので、いずれは挫折していただろう」と尾身さんは冷静に振り返る。
Y.S.C.C.時代に、こんなことがあった。
監督にサイドバックから攻撃的ポジションへの再転向を打診された。しかし過去の成功体験が邪魔をして、尾身さんはそれを固辞する。
「『サイドバックを続ける限り試合には出さない』と監督から言われていたのですが、僕にはサイドバックで結果を出してきたプライドがあった。いま考えると、まったくいらないプライドなんですけどね(笑)」
ポジション変更を受け入れず、試合に出られない1年間で、尾身さんは「柔軟に監督に合わせられる選手じゃないと、今後も試合に出られない。意地を張っている場合じゃない」と渋々ではあったが考えを変えた。
翌年は監督に言われたポジションで挑み、プレシーズンはアシストも得点もチームで一番の成績を残した。
ところが、リーグ戦が始まった途端になぜだか結果が出せなくなってしまう。「試合に出たいという思いが強すぎて、監督の顔色をうかがって、ミスを恐れて、萎縮していたからだと思います」。
人の評価を気にする状況では、自分は力を発揮しきれない。あらためてそのことを痛感した。そうだとしたら、就職して、会社や上司の方針に従って仕事をするよりも、起業するほうが向いているのではないか。
「そもそも、僕は誰かの下で働くのが嫌なんですね。サッカーをやっていたときも、監督に指示されても、それを無視して自分のやりたいプレーをしていたので」
よくよく尾身さんの話を聞くと、その気質はどうやら子どもの頃からのようだ。「5歳上の兄もサッカーをしていたんですけど、一緒にサッカーをしたことはほとんどないですね。家族と一緒にサッカーするのが嫌いでした。指示されるのが我慢ならなかったんです」と苦笑いする。



















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