だが、文化7(1810)年正月、馬琴が『夢想兵衛胡蝶物語』を刊行したときには、京伝も思わず熱くなってしまったようだ。馬琴自身が、京伝を怒らせてしまった理由について「遊女と妻と等しく思う考えを誹った」と書いている。京伝は自身が二度も遊女を妻にしているだけに、これには黙っていられなかった。
京伝は正月に弟の京山とともに馬琴のもとへやってくると、「遊女にも賢く才のある女は居る。また人の妻になって貞実な女も少なくはない」と馬琴に反論。「遊女が身売りするのは、親兄弟のためであることがほとんどである」と、遊女の不幸な境遇を説明しながら、さらにこう畳みかけた。
「私は儒学にくわしくない。お前はややもすると聖人の言葉を振りまわすが、もし聖人をここへ呼んできて、これについて是非を問えば、彼らは何と答えるかね。私のために、ひとつ聖人に代わって答えてくれないかね」
勢いに気圧されたのか、これには馬琴も「おっしゃるとおりでした。わたしの粗忽でした」と素直に謝罪……したかと思いきや、聖人への問いかけは気にくわなかったらしい。「遊女が賢才であろうと貞実であろうと、聖人がその是非など論ずるものですか」とプチ反論したうえで、こんな余計なことも口にした。
「私の本をくりかえしてよく読んで下されば、お怒りはとけます」
さすがの京伝もこれには激怒したというが、当然だろう。
北斎が馬琴のリクエストを受け入れずに揉める
実質的な師に対しても、この調子だから、作品のパートナー相手となれば何かと激突したことはいうまでもない。『新編水滸画伝』では、絵画を葛飾北斎が担当するが、案の定意見がぶつかって、ともに降板を申し出る事態に。
それから4年後の『占夢南柯後記(ゆめあわせなんかこうき)』では、馬琴からの挿絵の指示に、北斎のほうが激怒。「登場人物の口に草履をくわえさせる」という絵を描くことが、北斎には納得できなかったようだ。
北斎は「誰がこんな汚い草履を口にするものか!」とリアリティを疑問視。「そんなに言うなら、あんたがまずくわえてみてはどうか」と北斎が言い放ち、二人は絶交したとも伝えられている。


















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