それでもなお、揺れる思いはある。
「近所に若い夫婦が越してきて、ベランダにロンパースが干してあった。その子がもう5歳くらいになっているのを見ると、子どもの成長ってすごいなぁと思うし、産んでおいてもよかったかな、とチクッとすることもあります。
自分は血をつないでいない、と思うこともあります。でも、今の夫婦2人の状態が幸せというか、自分たちの性分にすごく合っているのは事実」と言う山内氏。
その理由について「家事の分担などでしっかりぶつかり合ってケンカしまくった挙句、なんでも腹を割って話せる関係に落ち着きました。結婚して10年。大人の2人暮らしならではの、人様の前では絶対に言えないようなキツいブラックジョークを日々飛ばし合って笑っています。誰に遠慮する必要もなく、プレッシャーもなく、解放されて生きています」と話す。
子どもを巡る多様性は人類の「当たり前」
子どもを産み育てるのが当たり前で、女性が子育ての中心を担う。そういう価値観は地方に限らず今でも主流を占めている。だからこそ、子どもがいない人は引け目を感じがちで、マイノリティであるという自覚が自分を不幸にしている場合もある。しかし、昔はもちろん医療が進んだ今でも、子どもは望めば必ず授かるものではない。
また、望んでいない人は、その事実を引け目に感じがち。しかし、日本が皆婚社会でこぞって子どもを産んだのは、昭和半ばの約20年ほどだけだ。その時期ですら授からない人はいた。そして、その前もその後も、結婚しない人や子どもを持たない人は常に一定数いる。
子どもを巡る多様性は、人類の「当たり前」でもある。人口減少が社会問題になってしまうのは、戦後数十年で人口が大幅に拡大したからだ。子どもを産まない現役世代を責めてよいなら、その前に産み過ぎた彼女たちの祖父母や親世代も咎(とが)めることができてしまう。しかし、時代の影響を受けた個人の選択は、批判できるものなのか。
地方女子が直面する現実は、誰もが結婚し子どもを産み育てるもの、という先入観が社会を窮屈にしていることを明らかにする。そうした前提がない社会になって初めて、女性も男性と同等の待遇で仕事ができ、多様な人が地域や親族親戚に受け入れられるのかもしれない。
さらに、子どもが私物化されずに尊重され、社会で見守り育てる了解ができれば、子どもを持った人も抱え込まされた重荷が減るのではないだろうか。
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