まさに前途多難とはこのことだろう。出版業から撤退を考えてもおかしくはないが、蔦重はあえて攻めに転じた。新たなジャンルに乗り出すことで、道を切り拓こうとしたのだ。そのジャンルとは「美人絵」である。
どんな逆境もさらなる飛躍のきっかけとなる
当時の美人絵は、着物の美しさを見せるべく、全身を描くのがスタンダードだった。そこで蔦重は、上半身をアップにする「美人大首絵」を考案。役者絵などに用いられていた大首絵(おおくびえ)の手法からヒントを得たようだ。
そうすることで、女性の表情も生き生きと描かれるので、観る者に大きなインパクトを与えることができる。それと同時に、顔が中心の構図であれば、着物は顔の周囲に限られる。華やかな柄もあまり描かないため、「華美な服装を助長している」と、幕府から目をつけられることもない。
ただ、一つ、ハードルがあり、女性の顔をきちんと描き分けられる絵師に描いてもらわなければならない。
そこで蔦重は画力の高い喜多川歌麿に「美人大首絵」を依頼。『婦人相學十躰』『婦女人相十品』などの「美人大首絵」は大きな話題を呼ぶことになった。
さらに、富本豊雛・難波屋おきた・高島屋おひさ、という美人で有名な3人の娘を描いた『当時三美人』で、大ヒットを飛ばすことに成功。絵師としての歌麿の評判も一気に高まることとなった。
歌麿の力を借りて蔦重が復活する一方で、同じく処罰された京伝も、ショックから立ち直っていった。京伝の場合は色本の作者として「手錠50日」の身体刑に処されており、手錠をつけたまま、50日も自宅に謹慎させられた。
だが、この騒動が京伝の名をさらに高めることになったようだ。寛政4(1792)年には、京伝の書画展が開催されて約180人もの来客があったという。経費を抜いても30両もの収入となり、その後の活動に弾みをつけている。
幕府の処分という逆境を乗り越えた蔦重と京伝。磨かれた「逆境力」でさらなる高みを目指した。
【参考文献】
山東京山著「山東京伝一代記」『続燕石十種 第2巻』(中央公論社)
高田衛著『滝沢馬琴 百年以後の知音を俟つ』(ミネルヴァ書房)
鈴木俊幸著『蔦屋重三郎』(平凡社新書)
曲亭馬琴著、徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』(岩波文庫)
真山知幸著『逆境に打ち勝った社長100の言葉』(彩図社文庫)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら


















無料会員登録はこちら
ログインはこちら