だが、これを機に正垣は業態の見直しを行うことにした。普通ならば好調な他店を参考にするところだが、正垣は食材消費量を調査した。世界規模でみると、トマト・チーズ・スパゲティの消費が伸びていたことから、イタリア料理店として再オープンへ。低価格メニューを打ち出したところ、客が殺到。世界一の年商を誇るイタリアンへと成長させることになった。
久保本家酒造は、1702年に奈良県宇陀市で創業され、300年の歴史を持つ蔵元だ。11代目に当たる久保順平は、家業への抵抗感があったため、金沢大学を卒業後、大和銀行(現:りそな銀行)へ就職。酒造とは関係のない金融業へと身を置いた。
だが、入行4年目のロンドン赴任をきっかけに、自国の文化を十分に説明できない自分に違和感を持ち始める。1990年に帰国してから5年後、銀行を退社して、伝統のある日本酒製造を継ぐことを決意した。
だが、そこで直面したのは、日本酒需要の減少だった。日に日に減っていくメーカーとの契約に危機感を募らせた久保は大胆な行動に出た。江戸時代に始まる伝統的な生酛(きもと)造りの導入に踏み切ったのだ。
その結果、従来の倍以上の手間と時間を要することになったが、キレ味が冴えて、しかもコクのある酒造りが大きな話題を呼ぶことに。思い切った原点回帰が、苦境を打開する一手となった。
財産を奪われてもなお出版業を諦めなかった
「江戸のメディア王」として名を馳せた蔦屋重三郎もまた、逆境を前進する力に変えている。
寛政3(1791)年、戯作者の山東京伝によって描かれた『仕懸文庫(しかけぶんこ)』、『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』、『娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)』の3作が、幕府によって「好色本」とみなさると、出版取締令に触れるとして、蔦重にも刑が科せられた。
曲亭馬琴が書いた山東京伝の伝記『伊波伝毛乃記(いわでものき)』によると、蔦重は「身上半減」という財産刑に処されることになったという。刑罰の内容については「財産の半分を没収された」という見方もあれば、「身分や財産に応じた罰金が科せられた」という見方もある。
いずれにしても手痛い財産刑に処されたことに変わりはない。しかも、挽回しようにも、これまでのように黄表紙を出せば、またしても幕府から処分されてしまうだろう。それ以前に、執筆を引き受けてくれる戯作者を探すのも一苦労だ。老中・松平定信の「寛政の改革」は、戯作者を委縮させるのに十分な厳格さをもって断行されていた。


















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