大河【べらぼう】「思ったようにはいかなかった」老中・松平定信が武士の借金踏み倒し令を出した切実な理由
さて、定信が老中に就任した頃、武士(旗本・御家人)のなかには、困窮により借金まみれになる者もいました。そうした武士を救うために寛政元年(1789)9月に出されたのが、棄捐令です。
武士の借金踏み倒しを認める「棄捐令」
棄捐令とは、札差(旗本・御家人に代わって蔵米の受け取り・販売を行い、手数料をもらいうけた商人)に対する借金を一部もしくは全部破棄させた法令のこと。
天明4年(1784)以前に旗本や御家人が札差から借りた金は破棄。天明5年(1785)から寛政元年までの借金は利子を引き下げ(年利6パーセント)、年賦返済(分割払い)とされました。
武士に金を貸す札差。その札差は武士に対して「失礼・尊大」な態度をとることもあったようです。貸す側(この場合は札差)が強い立場となるのは、いつの時代でも同じであり、当然と言えば当然のことです。
武士の困窮は武士の「義気」(意気や義侠心)までなくしてしまうと定信は感じていました。義気が衰えて人々(武士)は「柔弱」となり、下々(商人など)の勢いが増す。そのことに定信は危機感を抱いていたのです。
借金地獄の武士が、商人に平身低頭して金を借り続けていたら、武士のプライドというのはなくなっていくでしょう。一方、商人はそんな武士を見て、軽侮の念を抱く。
下剋上とも言える風潮が、社会を混乱させると定信は見て取ったのです。武士の義気を回復させるための1つの方策が、前述の棄捐令でした。
が、札差はこの棄捐令により、約118万両という債権を失いました。借りた方が、金を返さずに、一方的に得をするようなことは、本当ならばあってはなりません。人の物を借りて返さないのは「不義」というべきでしょう。
定信が棄捐令を出したのは、旗本・御家人の救済という目的のためだけではありません。武士の義気を回復させ、下剋上的風潮を取り払うために発令したのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら