大河【べらぼう】「思ったようにはいかなかった」老中・松平定信が武士の借金踏み倒し令を出した切実な理由
しかし、棄捐令がどこまでそれに貢献したかは疑問ではあります。棄捐令が出されてから2年後の寛政3年(1791)、江戸で盗賊の横行があったといいます。盗賊はあちらこちらに侵入し、物を盗んだようです。
人々は恐れて、犬の鳴き声を聞いただけでも、強盗かと思い、鐘を打ち鳴らす始末。町々が騒然とする状況が半月続いたとのこと。問題は、盗賊の中に旗本も交じっていたとの噂が立ったことです(旗本や御家人の屋敷にも強盗が入ったとの噂も語られていました)。このような噂が立つこと自体、定信からしたら、武士の義気が衰えているからということになりますし、嘆かわしいことでした。
「旗本らの財政はかならずしも好転せず」
棄捐令を出してから2年。法令により救われた武士もいたでしょうが、義気の回復という観点から見たら、どれほど効力があったのか疑問とせざるを得ません。棄捐令の評価自体も「旗本らの財政はかならずしも好転せず」というものもあります。
後年、天保の改革においても、老中・水野忠邦が棄捐令を出していることを見ても、寛政の棄捐令が成功したとは言えません(札差の閉店や、貸し渋りが起こったことも、不成功の理由でしょう。そうなるのは、当然と言えば当然ですが)。
ちなみに、前述の盗賊の件ですが、大松五郎という強盗があちこちに忍び込んで、盗みを働いたことが真相とされますが、彼を捕縛したのが、時代小説で有名な火付盗賊改役の長谷川平蔵でした。大松は強盗のみならず、婦女も襲ったようです。そのような悪事の末に、大松は捕縛され、斬首されたのでした。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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