大河【べらぼう】「思ったようにはいかなかった」老中・松平定信が武士の借金踏み倒し令を出した切実な理由

「指導者はいかにあるべきか」にこだわった
天明7年(1787)に徳川幕府の老中首座となった松平定信。翌年(1788)3月、定信は将軍補佐役にも任命され、同年中に田沼意次の「残党」を次々に罷免していきます。
そして、将軍の側近(側用人)に定信派の人物を配置したのでした。田沼派の老中を一掃した後には、戸田氏教や本多忠籌という定信の「信友」(親友)が老中となります。幕閣を定信派で固めた訳です。
とは言え、定信は独裁的に振る舞った訳ではありません。重要な事案は、御三家にお伺いをたてていましたし、仲間の老中と物事をよく相談して決めていました。
天明8年10月、将軍家斉の命令により撰述した形をとった「将軍家御心得十五ヶ条」を定信は定めています。
それには、文武を兼ね備えるべきこと、民衆を大切にすべきこと、才智をもって下々と争うべからざること、大奥が政治に介入するのを許容してはならないこと、質素倹約すべきこと、飲食を節すべきこと、昼過ぎまでは政務を執るべきこと、東照宮(初代将軍・徳川家康)の遺訓や歴代将軍の記録を学ぶべきこと、法を重視するべきことなどが記されていました。
また定信は老中としての心得を述べた「老中心得十九ヶ条」も定めています。これらは法律ではありませんが、指導者はいかにあるべきかという定信の思想が表出したものと言えましょう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら