松平定信の「寛政の改革」が「新自由主義からの脱却」だったワケ 「財政健全化、民営化、大企業優遇、地方切り捨て」を推進した田沼意次

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経済格差のイメージ
新1万円札の「日本資本主義の父」渋沢栄一は、なぜ松平定信をリスペクトしていたのか(写真:umaruchan4678/PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」に登場する松平定信と田沼意次。前者は「緊縮・不況の宰相」、後者は「積極財政・好景気をもたらした経済通」として、現代では評価されがちである。しかし、この通説は、本当にそうなのか。評論家の中野剛志氏が、日本思想研究者・大場一央氏の新著『未完の名宰相 松平定信』を読み解きつつ、現代日本の課題にも通底する「改革の本質」を、歴史の再評価を通じて明らかにする。

バイアスに曇らされる人間の眼

10月4日、自由民主党総裁選挙が行われた。昨年もそうであったが、総裁選の最中、人々は、マスメディアやSNS上で、各候補者の政策や人物像について好き勝手なことを論じていた。

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しかし、人間を正しく評価することは容易ではない。他人どころか、自分についての評価すら危うい。

自分より優れた人物を誤解したうえで貶めたり、逆に、軽佻浮薄な人物をさも偉大な指導者であるかのように持ち上げたり、といったことも少なくない。SNSは、日々、そんな人物評であふれかえっている。

なぜ、人物評価はこうも難しいのか。言うまでもなく、人間の眼はさまざまなバイアスによって曇らされているからだ。

「客観的に見ろ」などと簡単に言うが、実際には、人間の観察は特定の思想や偏見といった主観を通じてなされるということは、認識論哲学や心理学によって明らかにされている通りである。

人は、自身の思想や価値観というレンズを通して、他人を評価する。だとすると、人物評に映し出されるのは、他人ではなく、自分自身の思想や価値観だということになろう。自分より優れた人物を貶めたり、嘲笑したりする者は、自らの愚かさをさらけ出すことになるのだ。

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