「応戦などできるものではない。逃げるのが精一杯だった」太平洋戦争の戦場で何があったのか?いま聞かないと戦争体験者いなくなる

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
谷口末廣さんは、フィリピンのミンダナオ島でアメリカ軍に追われ山に逃げ込んだ。谷口さんは部下7名を持つ軍曹だった。山中で敗走する日本兵には階級も何もない。自分が生きることでみんな必死だった。
「最初は(倒れた戦友を)連れていくのが戦友愛、次は手榴弾を1個渡して捕まったら自爆しろよと置いていくのが戦友愛、そのうちどうせ死ぬんだから彼の血肉を生きている者の体力とするのが戦友愛と変わってくる。死人と一緒に寝たとか、死人のものを食べたとか、死人の服を着たとか、死人の靴を履いたとか、みんな知っている」(谷口さん)(84〜85ページより)

こうした過酷な状況下で、谷口さんは7名の部下に対し「これからこの8人は家族だ。どんなものもすべて分け合っていこう」と告げたという。1匹の蛙を全員で分けたこともあったそうで、死亡率が約80%のフィリピン戦線においても、谷口さんの班は2人の行方不明者しか出さなかった。

助け合う意思が冷静な判断と知恵をもたらした

谷口さんは、仲間同士の助け合いが命をつないだのだと考えているという。彼は必ず生きて帰るという強い意志を持っていたが、そのためには食糧もなにもない山中で生き抜かねばならない。そして生き延びるためには、自分のことだけを考えるのではなく、メンバーで助け合うしかない。そんな意志が、絶望的な山中で冷静な判断と知恵をもたらしたということだ。

とはいえ、飢餓地獄の山中敗走は、いつまで続くのかわからない状態である。だとすれば絶望を覚え、こんな思いをするくらいなら死んでしまおうと考える人が出ても不思議ではない。

「自暴自棄になったり、もういいやとあきらめた者は落伍したり、発狂したり、手榴弾で自殺する。夜中になると必ずどこかで手榴弾が爆発する音が聞こえました。そのときは、ああ誰かが死んだなと思う」(尾崎さん)
(84〜85ページより)

戦場から生還できた人たちは運がよかったからだけではなく、「生きたい。生きて帰らなければ」という強い意志があったから、運を拾うことができたのだろうと著者は推測している。しかしその一方、生きたいという願いが叶わなかった人も多いことだろう。

みんなそれぞれに生きて帰りたい理由があった。待っている人もいた。しかし、それがかなったのはわずかに2割ほどの人だけである。ほとんどの人々が望んできたのではない異国の山中で命を落としたのである。
こうして命を落とした人たちの最期の叫びが「天皇陛下万歳」であるはずがない。(84〜85ページより)
次ページ「戦場は人を狂わせる」
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事