「応戦などできるものではない。逃げるのが精一杯だった」太平洋戦争の戦場で何があったのか?いま聞かないと戦争体験者いなくなる
この記述を目にしたとき、もうずいぶん前に亡くなった父親のことを思い出した。彼はよく、「戦争に行くことが決まっていたが、出征直前に終戦になった」と話していたのだ。「名簿の、のど(本を開いたときの綴じ部付近)近くに自分の名前があったため、見落とされた」と聞いたこともあった。何十年も前の生前に聞いた話なので細かくは記憶していないが、事実だったとしてもおかしくない話ではあると思う。
父は大正14(1925)年生まれだったので、生きていれば100歳、終戦の年は20歳だったことになる。なるほど、辻褄は合う。
だが父とは違い、若くして戦場に出向いた人たちは確実にいた。ここにはそういう方々の声が収められているわけだが、ひとつ印象的なのは、少なくとも話を聴いた人のなかで、敵に向かって銃を撃った人は少なかったという点だ。それは、撃ち合うことこそが戦争だというステレオタイプのイメージを覆すことだとも思える。
テレビ局が取材に来た際、尾崎さんは「なぜ撃ち返さなかったのか」と何度も尋ねられたという。映画で描かれる戦争では撃ち合いが続くため、戦場とはそういうものだと思われたのだろう。だが、実際の戦場はそんなものではなかったようだ。
天皇陛下万歳と叫んで死んだ兵はわずか
戦時中の突撃時、兵士は「天皇陛下万歳」と叫んだという話を聞くことがあるが、これも事実とは決めつけられないようだ。著者も靖国神社に付属する戦争資料館「遊就館」で販売されている『英霊の言乃集』全10巻にもくまなく目を通したそうだが、天皇陛下万歳と綴ったのは631人中16人で、大半は父母、妻、子どもたちへのことばで綴られていたという。
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