「応戦などできるものではない。逃げるのが精一杯だった」太平洋戦争の戦場で何があったのか?いま聞かないと戦争体験者いなくなる

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

この記述を目にしたとき、もうずいぶん前に亡くなった父親のことを思い出した。彼はよく、「戦争に行くことが決まっていたが、出征直前に終戦になった」と話していたのだ。「名簿の、のど(本を開いたときの綴じ部付近)近くに自分の名前があったため、見落とされた」と聞いたこともあった。何十年も前の生前に聞いた話なので細かくは記憶していないが、事実だったとしてもおかしくない話ではあると思う。

父は大正14(1925)年生まれだったので、生きていれば100歳、終戦の年は20歳だったことになる。なるほど、辻褄は合う。

だが父とは違い、若くして戦場に出向いた人たちは確実にいた。ここにはそういう方々の声が収められているわけだが、ひとつ印象的なのは、少なくとも話を聴いた人のなかで、敵に向かって銃を撃った人は少なかったという点だ。それは、撃ち合うことこそが戦争だというステレオタイプのイメージを覆すことだとも思える。

尾崎健一さん(昭和3年生、89歳)は、フィリピンのルソン島から生還した数少ない旧陸軍の少年通信兵の1人である。
尾崎さんは通信学校の同期兵とともに、昭和19年(1944年)12月にルソン島に上陸した。16歳だった。同期兵は推定250余名、そのうち生還できたのは尾崎さんを含めわずかに十数名であった。
あえて言えば、激戦地にいた尾崎さんでも敵に向かって発砲したことはない。
「こちらが一発撃つうちに敵は10発くらい撃ってくる。とても応戦などできるものではない。逃げるのが精一杯だった」(尾崎さん)(57ページより)

テレビ局が取材に来た際、尾崎さんは「なぜ撃ち返さなかったのか」と何度も尋ねられたという。映画で描かれる戦争では撃ち合いが続くため、戦場とはそういうものだと思われたのだろう。だが、実際の戦場はそんなものではなかったようだ。

天皇陛下万歳と叫んで死んだ兵はわずか

戦時中の突撃時、兵士は「天皇陛下万歳」と叫んだという話を聞くことがあるが、これも事実とは決めつけられないようだ。著者も靖国神社に付属する戦争資料館「遊就館」で販売されている『英霊の言乃集』全10巻にもくまなく目を通したそうだが、天皇陛下万歳と綴ったのは631人中16人で、大半は父母、妻、子どもたちへのことばで綴られていたという。

次ページ「自分が死ぬことで大切な人の命が守れるなら」
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事