「応戦などできるものではない。逃げるのが精一杯だった」太平洋戦争の戦場で何があったのか?いま聞かないと戦争体験者いなくなる

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
「天皇陛下や国のために死ぬとは一度も考えなかった」
学徒出陣で慶應義塾大学から海軍に入り、特攻兵器「回天」搭乗員として訓練を受け、その後やはり特攻兵器「伏龍」部隊の小隊長だった岩井忠正さん(大正9年生、97歳)は続けて遠い昔のひとコマを振り返ってこう言った。
岩井さんが母校慶應義塾大学近くの坂道を歩いていたときのことだ。
「坂道を歩いていると、向こうから小さな女の子を連れた白いエプロンがけの若い母親が下りてきて私とすれ違った。そのとき私は、その情景の平凡さや日常性に心が打たれ、これを守るためなら命をかけてもよいと思った」(79ページより)

死ぬことは覚悟していたものの、決して天皇陛下や国のためではなかったということである。これを、天皇陛下や国に対する否定論だと解釈すべきではない。「ここで死ななければならない」という状況に追い込まれたときには、「自分が死ぬことで大切な人の命が守れるなら」と考えるのは決して不名誉なことではないのだ。むしろ、人間としての本質的な感覚だともいえる。

なお、学徒出陣で入営した人のなかには、訓練中に命を落とした人もいたが、「訓練で死人が出てもなんの問題にもされなかった」(岩井忠熊さん、大正11年生、95歳)という。

海軍予備学生では武装駆け足競技という訓練があった。
陸戦のための完全武装、小銃、弾薬、背嚢など30キロ超の荷物を背負い、すでに暑くなり始めた初夏の気候の中、坂道7キロを往復するのだ。この武装駆け足は、けっして歩いてはいけない、集団から離れてもいけない。とにかく倒れるまで走る、それが命令だ。
沿道には、下士官兵が担架を持って立っていた。
「私は完走することができたが、この訓練で3人の予備学生が死んだ。そのうちの1人は、ある子爵の息子だった。この3人が死んだことは何の問題にもならなかった」(79ページより)

いまの日本において、自衛隊の訓練で死人が出て問題化しないということはあり得ない。だが戦中の日本では、戦場で死ぬのも訓練で死ぬのも同じことだと、自暴自棄的な目で人の生死を見ていたのだろうか。

戦争は戦場だけでなく、日本人全体の価値観まで狂わせていたとしか考えられない。(81ページより)

戦争で生き残れるかは運次第

戦争で生き残った人に共通するのは運かもしれない。しかし単に幸運に恵まれたというだけでなく、「生きたい」「生きなければ」という強い思いがあったことも事実であるだろう。

次ページ仲間同士の助け合いが命をつないだ
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事