50代で初ひとり旅――「旅の始まりは定宿の屋上から」 人に呆れられるほど通ったベトナム 有元葉子さんの旅の記憶
なぜだかいつもお客のいない屋上レストランで、まわりは梅雨どきのような灰紫色のまだらな空。ホテルより高い建築物はまわりになくて、2階か3階ぐらいの低い建物のテレビアンテナの間を、小さなコウモリが飛ぶのが見えます。
繁華街に建つホテルなので、けたたましいバイクのクラクションやエンジン音が屋上にまで聞こえてくるけれど、それもまたこの街らしくて。

パイナップルから春巻きを抜き取り、熱々を口に入れて「ああ、おいしい」。そして「ベトナムに来たんだ」という実感が湧いてきます。日本の日常から離れて、エキゾチックな南の風景の中にいる、この浮遊感がたまらない。
初めてベトナムを訪れたのは、1992年。まだ観光で訪れる日本人はほとんどいなかった時代で、未知なる国に興味津々の私でも、初回はほんの3日間だけの短い旅でした。ところがその「ほんの3日」で、すっかりベトナムという国のとりこになってしまったのです。
ベトナムの“何に”魅了されたのか
何がいいって、やっぱり食事です。ベトナムはおいしかった!
初めて食べたのは、今でもはっきり覚えていて、焼き肉。昨今は近代化が進んで様子がまるで変わっているのでしょうが、当時のベトナムは、屋台のような屋台ではないような、開口部を開け放ったオープンな造りの食堂ばかりでした。
店の外の路上に、なつかしいたどん(炭団。炭の粉末を粘結剤と混ぜて、お団子のように丸めて固めた固形燃料)の七輪(昔は日本でも家庭で煮炊きに使っていました)が並び、その上で肉がじゅうじゅうと焼かれて、白い煙がさかんに上がっています。そこを通りかかるだけで食欲を刺激される、経験したことのないようないい匂い。
炭で焼かれる薄い肉は水牛で、赤身ばかりで脂気がないのでさっぱりしています。その、レモングラスなどのハーブを効かせた甘辛のおいしいたれをからめて、香ばしく炭焼きにするのです。
テーブルには、大きな洗面器にたっぷりの野菜が用意されています。サニーレタスのような葉、香菜、どくだみ、ディル、ミントや名前のわからない葉野菜がたくさん。その中から適当に葉っぱを抜きとって、運ばれてきた焼き立ての肉を包み、ヌクチャムという辛くて酸っぱいタレをつけて口に入れると……なんなのでしょう、このおいしさは!
焦げた香ばしさと、甘じょっぱい肉のうまみ、そこにさわやかな酸味や香草の涼しい香りが加わって、えも言われぬおいしさです。今までに体験したことのない、力強くてフレッシュで、こんなに私好みの食べ物があるなんて! 驚きました。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら