「徳川家基が亡くなった際に…」松平定信が本多忠籌を「英雄」「誠実」と評価したワケ

天明の大飢饉で定信は餓死者を出さなかった
天明の大飢饉は、江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天保の大飢饉)の1つです。冷害や浅間山の噴火(天明3年=1783)などで凶作となり、飢饉の惨状に拍車をかけたと言われています。
特に東北の被害は甚大でした。白河藩主であった松平定信(後に江戸幕府の老中就任)は、自叙伝『宇下人言』に凄まじい数の飢饉による死者数を書き込んでいます。
「仙台にて餓死したる人、四十万にみてり。津軽も二三十万人死せり」と。
しかし、定信の領国(白河)に餓死者は出なかったと言われています。先述の自叙伝にて、定信も「予が領国は死せるものなしと言えり」と記しています。だが、続けて「餓死しなかったとは言え、食べ物が悪くて、死んだ者がいるかと思うと、今も辛い」とも記しているのです。
白河藩の家中においても「飯料」に事欠く人々もいました。よって、そうした人々が藩上層部に何事か願い出たいとの話があったようで、定信は彼らを招きます。
組頭など残らず招いて、次のような内容の書き付けを与えたようです。「貧困に及ぶ者は願い出よ。重宝も人命には代え難い。どのようなことをしても救おう」と。
この定信の力強い言葉を聞いて、皆、喜んだそうです。領民や家臣の想いを汲み取り、彼らを救うため尽力する1人の藩主(定信)の様子が自叙伝からは垣間見えます(定信は蔵から米を出して、人々に与えます)。
また定信は、百姓を前にして、どれほどの米麦を蓄えればよいかを教えたといいます。米麦を毎年蓄えていけば、飢饉があっても、大丈夫というわけです。
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