「徳川家基が亡くなった際に…」松平定信が本多忠籌を「英雄」「誠実」と評価したワケ

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定信は自ら質素倹約を実行し、それを家中にも広め、食糧の緊急輸送などもして、飢饉という危機を跳ね返したのでした。餓死者が出なかった白河藩ということで評判になり、定信に「どのようにしたらよいか」「対応を伺いたい」という大名が多くいたとのこと。定信はそういった諸大名と交流を深め、刎頚の交わり(お互いに首を斬られても後悔しないような仲)を結んだようです。

その諸大名とは、松平信道・本多忠籌・本多忠可・戸田氏教・松平信明・加納久周などのことでした。定信は「大君(徳川将軍)のため、有為な人材を輩出したい」との一念で、彼らを教導しました(『宇下人言』)。

彼らの中で、定信が特に素晴らしいと感じたのは「弾正」、つまり、本多弾正忠籌(陸奥国泉藩主)でした。忠籌のことを定信は「古(いにしえ)にいう英雄」「至て信実(誠実)深く」「義篤くてよく物に感ず」と評しています(前掲書)。

定信が本多忠籌を高く評価したワケ

では、何をもって、定信は忠籌をそう評価したのでしょう。1つは、徳川家基が亡くなった際の忠籌の行動にありました。

家基は、10代将軍・徳川家治の嫡男であり、将来の11代将軍として期待されていましたが、安永8年(1779)、16歳にして病没してしまいます。その時、忠籌は50日間も肴酒をやめ、麻上下で、朝から夜まで端座して慎んでいたというのです。

また、天明6年(1786)、洪水があった時などの家中の取り仕切りも「驚くべきもの」があったといいます。

家中の手当て、残るところなく「米金を散らして」(放出して)、人々を救ったのでした。水で汚れた襖の繕いもしなかったとのこと。

食べ物も昼のみ「一菜」とし、朝夕は「飯のみ」食べたということです。忠籌もまた定信と同じように、率先して倹約に努めたのでした。定信は忠籌を「名誉の人なり」と記しています。

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