「徳川家基が亡くなった際に…」松平定信が本多忠籌を「英雄」「誠実」と評価したワケ
先に名をあげた播磨国山崎藩主の本多肥後守忠可もまた定信が評価する人でした。忠可の人格は「篤実」(誠実)。他人の良い話を聞けば、たちまち涙を流して喜ぶような人柄であったといいます。
美濃国大垣藩主の戸田氏教は、弁才(弁舌の才能)があるだけでなく、物に堪忍する性質だったようです。氏教は政治に関することを定信によく尋ねたとのことです。松平越後守康哉は、美作国津山藩主。定信は彼を「博識・弁才無双」と絶賛しています。
一方、批判された大名たちも…
定信は諸大名を褒めるだけでなく、時に批判もしています。
例えば、松平紀伊守信道(丹波国亀山藩主)のことは「温厚ではあるが、小量(度量が狭い)」と自叙伝に書いているのです。信道もまた先に見た大名と同じように、政治のことを定信に問いました。その人独自の見解で遂行してもいいようなことも、信道は常に定信に相談していたようです。定信はそれを信道が温厚だからこそではないかと推測しています。
加納備中守久周(伊勢八田藩主)は「剛直」で「人をよく見る」人物だと定信は評しています。「偉人」とも褒めています。久周は定信を貴ぶこと「神」の如くだったようです。久周のその様を見て、定信は「畏縮」したとのこと。
定信はこれまで記してきた諸大名と、小室にて、朝から黄昏まで語り合ったこともあったようです。「鹿食」(鹿の肉)のみを出させて、語り合ったとのことですので、簡素なものです。今回、記述してきた諸大名の中には、後に定信と共に「寛政の改革」を推進していくことになります。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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