偉大なる兄・秀吉を陰で支え続けた「名もなきNo2」 豊臣秀長に学ぶ、見事なまでの"金と人"の掌握術
彼ら納屋衆は、堺の港に集まる南蛮貿易や国内の物流を管理しており、鉄砲、弾薬、薬品、茶器、香料、絹織物などの高級品の取引を手掛けていました。納屋衆は織田信長の時代から政権と堺との間をつなぐ重要な存在でした。
信長亡き後、堺の有力商人とのネットワークは秀吉が受け継ぎ、兵站担当である秀長は直接彼らと折衝したことでしょう。
秀長の財務力とは、ただ金銭を管理する力だけではありませんでした。むしろ彼の真の強みは、人を通じて資金・物資・情報を動かすことができた点にありました。その財務ネットワークの象徴的存在になったのが千宗易(のちの千利休。以下利休と表記)です。
利休は堺の商人階級出身であり、武野紹鷗(たけのじょうおう)の弟子として茶の湯の世界に身を置いていました。元亀元(1570)年、千利休は織田信長に仕え、やがて織田家の茶頭になります。
秀長と利休が親しくなった契機は、利休が秀吉の側近として仕えるようになり、秀長が茶の湯の稽古を利休から直接受けるようになったことにあります。のちに秀長は、「内々の儀は利休、公儀のことは秀長がご対応いたします」と語ったことがあります。
利休は堺を代表する人物ですから、堺商人による財務ネットワークのとりまとめとして、秀長は利休を大いに重用することになります。
商人上がりの武将・小西行長が活躍
堺商人と秀長を結ぶ人物として小西行長も忘れてはなりません。行長は堺の薬種商の出身で、最初は魚屋(ととや)弥九郎と称していました。もともと行長は、備前宇喜多家の出入り商人で、備前の産物を堺に運び、堺の鉄砲などを宇喜多家に納入していました。
商才に富み、語学にも優れていた行長は、商人であると同時に、宇喜多家から秩禄を受ける武士にもなっていました。当時の武士の多くは農業兼業だったのですが、弥九郎行長の場合は商業兼業だったわけです。
当初、毛利と手を組んでいた宇喜多家は当主が直家の時代に秀吉側に寝返ります。結果、行長も秀吉側の「堺担当」として重要な働きをします。
三木の干殺し(1580年)や鳥取城の兵糧攻め(1581年)、備中高松城の水攻め(1582年)と、兵糧攻めの長期戦が連続すれば軍資金はいくらあっても足りません。秀長同様行長も大いに活躍し、出身母体である堺の商人を中心に金を融通してもらっています。
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