偉大なる兄・秀吉を陰で支え続けた「名もなきNo2」 豊臣秀長に学ぶ、見事なまでの"金と人"の掌握術
秀長は農民の出身で、23歳のころに鍬を捨てて刀に持ち替え、兄・秀吉の家臣になっています。以後、52歳でこの世を去るまで、忠実な「No2」として秀吉を徹底的に支え抜きました。
その間、秀長は数々の武功を挙げるとともに、領地における善政や諸大名と秀吉の間をとりもつなど、多くの功績を上げています。天正時代中頃の豊臣政権期には、所有する領地の石高や官位の上で、名実ともに徳川家康と並ぶ実力を誇りました。
しかしながら現代の私たちは、秀吉や家康といった英雄たちについてはよく知っていても、比較的地味な存在である秀長については、ほとんど知らないのが現状です。
偉大な業績にもかかわらず、秀長がほぼ無名な存在であることの理由は、手柄を挙げても驕らず、前に出ず、名もなき「No2」的な存在としてリーダー秀吉を支えていたからです。いわば「縁の下の力持ち」「参謀的キャリア」あるいは「陰のリーダー」としての役割を全うしたのが豊臣秀長ということになります。
そもそも、No2とは相対的な概念です。たとえば私に直属の上司がいて、その補佐的役割で働いていたとすれば、私がNo2のポジションにあることを意味します。しかしながら、私が上司に仕えつつ補佐的な役割の部下を持っていれば、私はリーダーで部下がNo2になります。
つまり、No2とはビジネスパーソンの誰もがなり得る、組織に必要不可欠な役割です。
では、誰でもなり得るNo2として結果を残すには、どのように考え、行動すればよいのでしょうか。その極意について、秀吉のNo2として生涯を全うした秀長に学ぼうというのが本稿の趣旨です。秀長にまつわる歴史的事実やエピソードを多数紹介しつつ、No2としての働き方のヒントを示したいと思います。
堺商人ネットワークのとりまとめに千利休を重用
戦の勝敗を左右する兵站は財務で支えます。では、財務は何によって支えるべきなのでしょうか。
戦国武将の場合、基本となるのは年貢すなわち農民からの税です。また、豊臣兄弟の場合、生野銀山も財務を支える重要な資金源でした。そして、これらに加えて見落としてはならないのは、人脈を通じた資金の手当てです。その中心になったのが堺の有力商人たちです。
当時堺には津田宗及や今井宗久、納屋助左衛門など有力な納屋衆がいました。
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