【追悼】志太勤氏、レストランカラオケの草分け「シダックス」を創った男の"不屈の経営哲学"
この困難を打開するため、志太氏は1956年に、静岡県でアイスキャンディー事業を始めた。当時は家庭用冷蔵庫が普及し始めたばかり、家で冷凍保存するという習慣がなかった。そのため、購入直後に食べなければ溶けてしまうアイスキャンディーは飛ぶように売れた。「これはいける」と判断し、静岡県では最大規模の冷菓工場を建設した。
しかし、喜んでいたのはつかの間だった。志太氏を不運が襲う。工場が火災に見舞われたのだ。1958年4月13日のことだった。
あろうことか、工場に火災保険をかけていなかった。すべてを失い、失意のどん底へと突き落とされ、多額の借金だけが残った。
故郷に見捨てられたと思った。当時の地方都市では、事業で失敗した人にもう一度チャンスを与えるような雰囲気はなかった。志太氏は東京に出ることを決意した。
東京で得た成功への確信
新宿駅で降りたとき、その人の多さに驚かされた。これだけのお客さんを相手にすれば、絶対に成功する。そして、事業で日本一になるには東京で商売するしかないと確信した。
若くして3回の大きな挫折を経験してもへこたれなかった。この不屈の精神が志太氏の真骨頂。そのアニマルスピリットの支えとなったのが、時々に巡ってくるチャンスであり、それを見逃さず食いついていった俊敏な意思決定と行動力だった。これこそが、大衆食堂「大炬燵」の廃業という失敗から学んだ叡智だろう。
東京に知り合いは誰もいなかった。たまたま義父の知人に富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)の現像工場(東京都調布市)の工場長がいたことを知る。志太氏はさっそく動いた。
社員食堂の受託契約を得るため、2カ月間に10数回、工場長宅を訪問した。その工場長はあまりにも熱心な志太氏に根負けした。志太氏は1959年1月、ついに、社員食堂「富士食堂」の運営を受託したのだ。これを機に、シダックスの前身となる富士給食を創業する。
当時の社員食堂は単調なメニューや画一的なサービスが一般的で、評判もよくなかった。ならばと、志太氏はこれまでの社員食堂の概念を覆し、おいしく栄養バランスの取れた食事を提供することに心血を注ぐ。そして、食事を提供する社員食堂のスタッフ1人ひとりが笑顔で接客する重要性を説いた。
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