【追悼】志太勤氏、レストランカラオケの草分け「シダックス」を創った男の"不屈の経営哲学"
志太氏は並々ならぬ行動力を備えた闘士であった。無骨な風貌で決して話し上手ではなく、威張った言動は一切なかった。叩き上げだけに社内では厳しかっただろうが、外から見た印象は、いい意味でつかみどころがなく、余計な緊張感を与えない人物であった。
そうした性格ゆえに、シダックスを一代で築き上げただけでなく、プロ野球マスターズリーグのコミッショナーやモバイルスマートタウン推進財団(現・財団法人デジタルスマートシティ推進財団)の代表理事など、多様な役職を歴任した。さらに、日本ベンチャー学会顧問や日本ニュービジネス協議会初代会長に就き、スタートアップの支援にも熱心であった。
1996年に「志太ファンド」(基金50億円)を設立し、研究開発型ベンチャー企業に資金や経営ノウハウを提供。翌1997年4月には、ベンチャー企業支援のための人材育成機関として「志太起業塾」を開校した(2003年3月終了)。
野球の夢が絶たれたことで起業家の道へ
ここで、志太氏の人生を振り返ってみよう。
1934年10月、静岡県田方郡韮山町(現・伊豆の国市)に生まれた志太氏は、野球に明け暮れる日々を送っていた。ところが高校2年生のある日、投球動作に大きな支障をきたすほどの痛みが右腕に走る。医師から「一生野球はできない」と言われた。
在籍していた静岡県立韮山高校は全国有数の野球強豪校。レギュラーで投手を務めていた志太氏は、甲子園に出場しプロ野球選手への道を夢見ていた。だが、その願いはかなわなかった。この挫折が志太氏の人生に大きな影響を与えた。
厳しい現実を受け入れた志太氏にチャンスが訪れた。高校3年生の秋に「もっと大きな食堂を始めたい」という親戚から、大衆食堂「大炬燵(おおごたつ)」を譲り受けた。高校生起業家の誕生である。
幸い、店は繁盛した。高校に通いながらひたすら働き、3、4時間くらいしか寝なかったという。ところが、新しいバイパス道路が開通して、旧道に残された「大炬燵」にはトラック(運転手)がまったく来なくなった。
そして、廃業に追い込まれる。18歳にして倒産を経験したのだ。このとき、ビジネス環境が激変する怖さと、時代の流れを着実につかみチャンスをものにすることの重要性を学んだ。
野球というチームスポーツの世界で培われた粘り強さや、大衆食堂での実践知、経営経験は、後に志太氏のビジネス人生においても重要な原体験になったと考えられる。
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