【追悼】志太勤氏、レストランカラオケの草分け「シダックス」を創った男の"不屈の経営哲学"
「食事は単なる腹ごしらえではない。社員同士の絆を深め、仕事への活力を生み出す大切な時間なんだ。だから、おいしいのは当たり前。大切なのは心だ。心で料理を作り、心で提供するんだ」
このような取り組みが功を奏し、創業当初に受託した富士フイルムの社員食堂が外部でも評判を呼び、高度経済成長期には大手企業から社員食堂運営の依頼が次々と舞い込んできた。
1964年10月、東京オリンピック大会組織委員会から指定を受け、大会運営スタッフへの食事提供業務を受託した。1967年4月にはフジ調理師専門学校(後に、志太学園調理師学校に改称)を開校。1970年3月、日本万国博覧会(大阪万博)で警備員用食堂など食事提供業務を受託し、大規模イベント対応能力を証明する。
1974年4月には東京・西新宿にオープンしたばかりの新宿住友ビル内で、日本初の高層ビル内カフェテリア方式による食堂を受託運営することになった。以後、新宿三井ビル、池袋のサンシャイン60などでも同様の契約を獲得していく。
カラオケのイメージを大きく変える
さらに志太氏は、病院や学校給食、企業のカフェテリア、官公庁食堂などへコントラクトフードサービス(受託契約に基づく給食運営事業)へと事業領域を拡大していった。その中で「シダックス」の名が小学生から大人まで知られるようになったのが、カラオケ市場への進出であった。
1993年8月にレストランカラオケ事業を主体とするシダックス・コミュニティープラーザ(後のシダックス・コミュニティー)を設立し、同年12月、東京都立川市にレストランカラオケ1号店をオープンした。後発ながら、新しい店づくりは大きな評判を呼んだ。
従来のカラオケボックスは薄暗く、飲食提供が限定的であったのに対し、シダックスは「食事ができるカラオケ」をコンセプトに掲げた。清潔で快適な空間、高品質な音響設備、そして充実したフードメニューを提供することで、幅広い客層から支持を得た。
志太氏は「カラオケは歌を歌うだけじゃない。家族や仲間とおいしい食事を囲みながら、心ゆくまで楽しめる場所にしよう。だから、うちは『レストランカラオケ』なんだ。誰もが安心して来られる、健全なエンターテインメントを提供したい」と、そのビジョンを語っていた。
「レストランカラオケ」というコンセプトは、当時としては画期的で、それまでのカラオケのイメージを大きく変えた。友人や家族との会食の場としても利用できる「ファミリーカラオケ」という新たな市場を開拓し、カラオケは単なる娯楽施設から、多様なニーズに応える複合的なエンターテインメント空間へと変貌を遂げた。こうした付加価値を高めた差別化戦略で成功したカラオケ事業により、シダックスは成長をさらに加速した。
(後編に続く)
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