放置された空き家でも「貴重な文化財」、解体寸前だった戦前木造モダニズム建築「三岸家住宅アトリエ」。孫娘が必死に模索する継承

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「三岸家住宅アトリエ」は三岸節子の夫、油彩画家で鬼才と呼ばれた三岸好太郎がドイツのバウハウス(1919年にドイツのワイマールで設立された美術学校でモダンデザインの基礎を築いたとされる)で建築を学んで帰国したばかりの山脇巌に依頼、自ら図面を描き、1934年に竣工したもの。

正面から
正面から撮影した現在の様子。杉の木のせいで全体が見えにくくなっている(写真:©三岸アトリエ 撮影/千葉正人)

残念ながら好太郎は完成の2カ月前に名古屋で亡くなり、残された節子は長兄の援助を受けながら戦争中も疎開せず、このアトリエを夫の遺作として守ってきた。

といっても、好太郎の死後、節子は当初のアトリエに加え、食堂、浴室、寝室などを増築。その後にもアトリエ北側に階段、浴室、トイレなどが設けられるなど何度か、建物に手を入れている。

増築部分
正面から見た増築部分。暖炉があり、煙突はそのためのもの(写真:©三岸アトリエ 撮影/千葉正人)

一家にとってのアトリエと「カーサ・ビアンカ」

そこに節子の孫である山本愛子さんが居住するようになったのは、1968年に節子が息子の黄太郎一家とともにフランスに移住することになったため。

節子が愛子さんの母、つまり、娘である陽子さんに「アトリエを残すように」と言って旅立ったのだ。そこで愛子さん家族はそれまで住んでいた練馬区の住居を引き払って引っ越してきた。

とはいえ、住んだのはアトリエの裏手にあるマンション、カーサ・ビアンカ。三岸好太郎は現在のアトリエの前にもう1棟、アトリエを建てており、カーサ・ビアンカはその跡地に建ったものだ。そのため、アトリエは陽子さんが時々洋裁をする時に一部を使うくらいでほぼ空き家になった。

カーサ・ビアンカ
アトリエから見たカーサ・ビアンカ(写真:©三岸アトリエ 撮影/千葉正人)
外階段
「カーサ・ビアンカ」の外階段。愛子さんの母、陽子さんが秀和レジデンスにインスパイアされて造ったそうだ(写真:©三岸アトリエ 撮影/千葉正人)

その後、節子は1989年に帰国するが、鷺宮のアトリエに戻ることはなく、大磯のアトリエに定住。1999年に節子が死去したあとも陽子さん、愛子さんたちはアトリエを守り続けてきた。

だが、その時点でアトリエの建つ土地は借地。いずれ相続が発生した時にはアトリエを解体、更地にして土地を返還することになるだろうと考えた。あるいは相続対策として解体してそこにアパートを建てるか。

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