意知は応急手当を受けて、駕籠に乗せられて神田橋の屋敷へと帰宅。回復に向けて、あらゆる手が尽くされたという。
息子を襲った突然の悲劇に、誰よりもショックを受けたはずの意次だが、事件の翌日には、通常通りに出勤したというから驚きだ。「息子が危篤状態だというのに出仕するとは、人情が薄い」「そこまでして役職にしがみつくのか」と批判されたとも伝わるが、実際は意知の休暇願いを出しにきたらしい。胸中では「何とか持ちこたえてくれ」とただひたすら祈ったことだろう。
だが、出血多量により、田沼意知は3月26日の明け方に死去。享年36だった。
「誠に善人」と評判も、葬送では投石もされた
意知の人柄については、『赤蝦夷風説考』を書いた江戸時代中期の医師・工藤平助の娘である只野真葛(ただの・まくず)が随筆『むかしばなし』で、次のように書いている。
「佐野善左衛門に切られた田沼意知殿は、至極よい人で、将軍のお気に入りだという。誠に善人である」
意知自身に具体的な悪行が何かあったわけではなさそうだ。ただ、父の意次が権勢を振るい、露骨に意知を出世させたことで、田沼親子への風あたりはかなり強くなっていた。
葬列が意次の屋敷から田沼家の菩提寺である駒込の勝林寺に向かうときのことだ。7~8人の物乞いが駆け寄ったが、何ももらえないことに腹を立てて葬列に投石を始めたところ、一般の町民までもが悪口を言いながら、投石をし始めたという。
また、田沼家の家紋をつけたゴザをかぶった1人の物乞いを、鍾馗(しょうき:中国で疫病神を追い払う神)の格好をした物乞いが追いかけて、木刀で斬り殺す真似をしながら、町を回ったときも、それを観た者たちは「いい気味だ」と盛り上がった。
それから約4年後の天明8(1788)年、黄表紙の『時代世話二挺鼓』(じだいせわにちょうつづみ)が発刊された。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら