だがもし、仮にそんな義憤が動機ならば、なぜターゲットは意次ではなく、意知だったのか。先に紹介した、意知の人柄を書いた只野真葛は、こんな解釈を打ち出している。
「政言は父の田沼意次を斬ろうと狙っていたが、出会う機会がなかったので子の意知を斬ったということらしい。これも天命である。世の中が変わる時節がやってきた」
確かに意次よりかは意知のほうが近づきやすかったことだろう。在任中に日本研究を行い、『日本風俗図誌』という書を著した在日オランダ商館長ティチングは、こんなことを書いている。
「幕府の封建制度を固守しようとする一派の見方は、意次のほうはすでに老年ゆえ、時が来れば自然に死ぬが、意知のほうは年が若いから、計画するところの革新事業をしとげるだけの余裕をもっている。今のうちにこれを倒さねばならぬと考え、ついに彼を殺すことが決定され、佐野善左衛門がこれを敢行したのである」
父の意次は老齢で先が短いため、これから改革を引き継ぐ子の意知を亡きものにすべきだ――。そんな深謀遠慮があったというが、それにしては犯行があまりに突発的だ。政言を「世直し大明神」とするムードを受けての深読みではないだろうか。
個人的ないざこざからの怨恨説も
また一方では、政言が意知に個人的な恨みを抱いていたとも言われている。理由として噂されているのは、次のようなものだ。
「意知に頼まれて系図を貸したにもかかわらず返却されなかった」
「佐野家に伝わる七曜の旗を意知が見たいというので貸したところ、七曜は田沼家の定紋として奪われた」
「何か役職に就けてほしいと意次の用人に頼み、大金をつぎ込んだのに反故にされた」
「将軍鷹狩りの際、意知がカモを一羽射ち落としたが、その恩賞に洩れたのを側近の意知の仕業だと思い込んだ怨みだ」
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