物語の内容は、平将門の乱を下敷きにしながら、平将門を田沼意知、乱を平定させた藤原秀郷を佐野政言になぞらえたもの。すでに意次も没しているにもかかわらず、田沼親子がネタにされている。

田沼意次といえば、もっぱらワイロ政治家としてのイメージばかりが強調されてきた。昨今は経済改革が評価され始めているが、リアルタイムでの嫌われっぷりは、後世の我々が想像する以上のものだったようだ。災害続きで未曽有の飢饉に直面した庶民の、やり場のない怒りや悲しみが、田沼親子にぶつけられることとなった。
なぜ意次ではなく意知をねらったのか?
一方の意知を切った政言はといえば、意知の死が正式に公表された4月2日の翌日に、切腹が申し渡されている。享年28だった。
投石が行われた意知の葬列とは打ってかわって、政言の墓がある徳本寺には、多くの人が参拝に訪れて、その死を悼んだ。「世直し大明神」とまで言われて、賽銭箱には連日のように多くの銭が投入された。香花を手向ける者も数多く見られたため、花や線香を売る売店は3カ所も開かれたという。
いきなり斬られたほうは蔑まれて、斬ったほうが讃えられるのは何とも奇妙だが、幕府評定所が「政言の乱心」としたのとは異なり、庶民は政言の凶行に「義憤」を感じたらしい。調子に乗ってわが物顔に振る舞う田沼親子に鉄槌を下してくれたと、溜飲を下げることとなった。
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