時勢を読んで、常に新しいことに挑戦している人は魅力的だ。
もっとも仕事でかかわりがある人ならば、巻き込まれて大変な目に遭うこともあるかもしれないが、それでも同じような仕事ばかりをする相手と組むよりは、自分の成長につながり、何より刺激的な時間を過ごすことができる。
歌麿にとって蔦重はそんな存在だったのではないだろうか。狂歌ブームが巻き起こったときも、蔦重はすぐさま反応している。狂歌とは「五・七・五・七・七」という和歌の形式を用いて、日常卑近の事を題材にしながら、滑稽や風刺、機知を詠み込んだものだ。
狂歌は会の場での詠み捨てが原則とされていたが、天明3(1873)年に狂歌集が刊行されたことで、流れが変わる。狂歌ブームをいち早くかぎつけた蔦重は、初心者に向けた狂歌の手引き書を刊行。「蔦唐丸」(つたのからまる)と号して狂歌師になり、狂歌ネットワークを積極的に広げていく。
蔦重のもとで「狂歌絵本」を盛り上げる
蔦重は狂歌師と浮世絵師とを積極的に引き合わせて「狂歌絵本」というジャンルを開拓。歌麿も制作に参加している。天明6(1786)年刊の『絵本江戸爵』(えほんえどすずめ)を皮切りに、のちに「歌麿三部作」と呼ばれる『画本虫撰』(えほんむしえらみ)、『潮干(しひ)のつと』、『百千鳥狂歌合』(ももちどりきょうかあわせ)など、歌麿は実に計13種にもおよぶ狂歌絵本を、蔦重のもとで刊行している。
いち早くブームに乗じるのは蔦重の得意技だが、その一方で、逆風さえも利用するたくましさも持ち合わせていた。
老中・松平定信による「寛政の改革」が断行されると、蔦重の出版活動が問題視される。耕書堂から刊行されている出版物には、世相や政治を揶揄する風刺が多く盛り込まれていたからだ。蔦重には「身上に応じて重過料」、つまり、身分や財産に応じた罰金刑が科せられることになった。
政治風刺ができないとなると、路線変更をせざるをえない。そこで蔦重は歌麿の美人画に活路を見出す。
といっても、ただの美人画ではない。これまでの美人画は全身が描かれることが多かったことに着目し、これまでになかった上半身アップで顔に目が行く「美人大首絵」が生み出されることになった。歌麿と蔦重が話し合いを重ねながら、役者絵などに用いられていた大首絵(おおくびえ)の手法から、ヒントを得たのだろう。

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